世界の法則

聖書の空の教え

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日本人は、空の教えは釈迦が発祥だと思っている人がいますが、実はそうではありません。

 

釈迦よりも何百年も前に、世界の知恵者と呼ばれた、ソロモン王によって、空の教えはされてきて、今でも聖書には、空の教えが書かれているのです。

 

では、なぜ空の教えがそれほど有名ではないのか?と思うかもしれませんが、聖書にはそれ以上に大切な奥義が大量に書かれているので、空の教えはその1つとして埋まっているだけなのです。

 

今回は、本当の空の教えとは、何なのかを考えていきましょう。

1、この世のすべての物は、空である

伝道者の書1章1-14節

ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。 2伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。 3日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。 4世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。 5日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。 6風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。 7川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く。 8すべての事は人をうみ疲れさせる、人はこれを言いつくすことができない。目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。 9先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。 10「見よ、これは新しいものだ」と言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。 11前の者のことは覚えられることがない、また、きたるべき後の者のことも、後に起る者はこれを覚えることがない。 12伝道者であるわたしはエルサレムで、イスラエルの王であった。 13わたしは心をつくし、知恵を用いて、天が下に行われるすべてのことを尋ね、また調べた。これは神が、人の子らに与えて、ほねおらせられる苦しい仕事である。 14わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである。

 

空の教えは、このようにソロモンが明確に文字にして残していたのです。

孔子もそうですが、釈迦は、すでに聖書などの教えを知っていて、それらを学問として説明していったものたちなのです。彼らの教えは先人たちが残した知識からヒントを得て、さらに分かり易く説明していったものなのです。

ですから、今の牧師などがしているようなことを孔子や釈迦は、復古運動をしていたということです。

釈迦は、サカ族というイザヤ(サカ族・釈迦族)の末裔の貴族でした。突然あらわれたイスラエル人という膨大な数の民族が、インドの北、中国の南側に広がりました。釈迦は、イスラエル人12部族の子孫、しかも、預言者イザヤの子孫だったのです。

 

ちなみに、日本の蘇我氏は、この釈迦族の末裔だと思われます。ソガ・サカですね

 

なので、蘇我氏は、原始仏教を教え、偶像を拝んではいなかったので、神道とも仲良くやっていけていたのです。

 

神道は、偶像を否定する宗教だったので、偶像を崇拝する大乗仏教を物凄く否定して、弾圧したのです。

 

蘇我氏の正体>>

物部氏の正体>>

秦氏の正体>>

 

仏教は、偶像思想だと思っているかもしれませんが、そうではありません。釈迦は、あらゆる偶像を否定し、呪文や墓、輪廻転生などの偶像思想を否定した教えを続けた、宗教というよりも、学問的な論理的な思考を人々に植え付けた素晴らしい学者だったのです。

 

釈迦の死後、弟子たちが、宗教に変えてしまっただけで、釈迦が生きていたら、今の日本の仏教をみたら悲しむとよく言われるのは、釈迦が否定したものばかりが仏教に入り込んでいるからなのです。

 

釈迦は、聖書から神様を抜かした、学問を教えただけだったのです。それは孔子も同じです。

 

 

では、空の教えは、ソロモンが考えたのでしょうか?

 

言いえ、これもまた違います。

 

ソロモンは、すでにこの世界が空から生まれたと教える創世記を別の言い方で、空と表現しただけで、ソロモンも聖書から世界の理を説明したのです。

 

 

多くの仏教は、空から説明していくので、現実と一致しません。釈迦は、その時代背景からしょうがなく神様を強調することをしなかっただけで、神様を否定しているわけではありませんでした。というのも、釈迦や孔子の時代には、神という名を使ったまるで悪魔のようなご都合主義で、非論理てきな宗教が、広まっており、それらの多くの詐欺宗教によって、多くの人々が犠牲になっていたのです。

 

神様を一部の人間が、都合よく利用しはじめて、多くの非論理的な教えを人々の脳に汚染させていっていたので、論理的に考えることを教える仏教や儒教で、脳を自らの論理的意思で、洗い流す土台を作ろうとしたのです。

 

ですから、彼らは神を強調することをあまりしなかったのです。

 

それは、その時代ではいいことだったとわたしは思いますが、その後の時代では、悲劇にもなっていきました。神がいないという考え方へと歪曲させられていき、さらに恐ろしい歴史を生み出していったからです。

 

このように、空の教えは、0からはじまっているかのように考え、すべてのものは、空であるからはじまっていると教えてしまっていますが、本当は、釈迦はそんなことを言いたかったのではないとわたしは思っています。

 

釈迦はどこまでいっても、現実的な教えを伝えているからです。

 

今の仏教は、すべては0だと教えていることが多いわけです。

 

ですが、ソロモンの空の教えは、すべては、空のようなものであると伝えていて、0からはじまったものだとは、もちろん言っているわけではありません。

 

 

聖書は、1からはじまっているからです。

 

0とは、本当の0のことでって、無のことです。

 

何もないとは、本当に何もないのです。

 

では、何もないところから、何かが生まれるでしょうか?

 

 

当たり前ですが、生まれませんね。無いものは無いからです。

 

 

死人には、命がありません。

では、あなたは、その死人を殺すことができるでしょうか。

無いものは、奪うこともできないのです。

 

では、あなたは、存在しないのでしょうか?

 

そんなわけはありません。

 

あなたは、手があり、その手を他の手で触ることもできます。あなたは確実に「存在しています」

 

「我思うゆえに、我あり」という言葉通り、「わたしって何なんだろう?」と考えられるということは、あなたは存在しているということなのです。

 

 

なのに、0から始まっているわけがありません。

 

わたしたちやこの世界が存在しているということは、はじめは0ではないのです。

 

 

そして聖書は、現実と一致しているので、世界は「1」から創られたと教えています。

 

神様は、預言者モーセに言いました。

 

「わたしは、「有る」というものだ」

 

わたしたちの世界は、はじまりがあれば、終わりがありますが、神様は、はじめから「ある」という存在で、時間さえも創り出した存在なのです。

 

永遠なのですね。

 

はじめから生きている存在なのです。

 

その神様がいて、その神様が、世界を無から創られたのです。

 

ですから、その創られたわたしたちやこの世界は、空のような存在であり、実は虚しいものなのだと教えているのです。

 

わたしたちには、善もなければ、愛も正義もなく、それ以前に、無であり、空虚のような存在だということです。

 

ですが、その空虚のような存在に、偉大な神様が、意味を与えられたのです。

 

 

生きる意味や存在している意味、善悪や愛や正義を注ぎこまれたのです。

 

それゆえ、わたしたちは、悪を否定し、善を喜びとすることが出来るのです。

 

 

そうでなければ、何を探しても、人間は虚しいだけの存在へと変わってしまうのです。

 

 

ですから、どんな宗教であっても、神様を心から信じている人には、意味があり、愛や正義を宿しているということです。

神様を信じていないのなら、人を殺してはいけない理由もなくなってしまうのです。

 

なぜ人は殺してはいけないのか>>

 

 

ソロモンは、神様以外に、人が想うものは、すべて虚しいものであり、過ぎ去るものでしかないと教えました。

それを理解できないと、人は、あらゆる悪を知らないうちに、行ってしまうのです。

 

特に現代に生きているわたしも含めた多くの人々は、知らないうちに悪をしてしまうことが、五万と存在しています。

 

なぜなら、大詐欺時代に生きているからです。

 

わたしたちが、小さい頃からほとんど強制的に通わされた学校宗教団体で、あらゆる嘘や詐欺情報を脳に入れられ、汚染されているからです。

 

 

日本は、海に流れてきたワカメさえも、自由に食べてはいけません。自然界のものを獲って食べると、生態系が乱れるといって、悪者にされ、釣りさえもできないようにされているのです。

 

アメリカでは、テロに利用されるからといって、自分の家の庭に、自由に作物を育てることも禁止されているところもあるのです。

 

「お金」というものがなければ、生きていけないように誘導させられているのです。

 

 

そういったものは、二次的、三次的な問題でしかありません。

 

そういった一部の人間の都合のいいシステムによって、誘導されているのは、現代では、大量にありますが、人間の意思を離れたようなところにも、実は問題があるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

2、愛するものが悪になる

釈迦もそうですが、ソロモンも、人間がこの世のものを求めることが、悪になってしまう懸念を教えています。

 

例えば、家族です。

 

家族という形態は、自然なもので、二次的な大切な事実であると考えます。

地位のあるひとが、何かしたわけでもなく、支配者が歪曲させたわけでもなく、家族を作ろうとすることは、神様が創られた多くの世界、二次的な物の自然な法則だと言えます。

 

ですが、この家族にあまりにも集中しすぎて、大切だと錯覚してしまうと悪を行ってしまうのです。

 

ペットなどを飼うと、どんどんそのペットが好きになっていきます。まるで家族のようになっていきます。

 

住めば都という言葉があるように、人は、一緒に過ごしている人や物、環境などに親しみを持つようになるのです。

 

これは悪いことではないのですが、何でも「過ぎる」と悪いものになってしまうのです。

 

 

家族を大切にしすぎて、会社を大切にしすぎて、嘘や詐欺のような行為をしてしまったり、正義よりも、自分の都合、親しみのあるものを優先してしまうのです。

 

釈迦は、ブッタになる前は、家族がいて、こどももいました。

ですが、これらをすべて捨てて、修行にあけくれました。

 

イエスキリストも旅を続けると、家族を作ろうとはせず、また母親であっても一線を引いていました。

母親のマリアにも、「女。あなたはわたしの何なのだ」と声をかけています。

 

天の父だけが、わたしの父であると最後の最後まで、イエスキリストは貫いたのです。

 

そのふたりに共通しているのは、この世のものを拠り所にしないことでした。

 

釈迦は、世界の法則。イエスキリストは、さらにその法則を造られた神様だけが、意味のあるものであると考え、歩んだのです。

 

 

家族が大切、お金が大切、夢が大切、車が大切、仕事が大切、ありとあらゆる人が心に大切だと思うことが、執着へとかわり、その欲が、増して、罪になり、罪が増えれば、死に至ってしまうのです。

 

聖書や神様が教える「幸せ」とはそういったものではありません。

100人いれば、一人や二人だけが選ばれて手に入れることが出来る優越感を元にした幸せではなく、100人いれば100人がすでに手に入れている幸せを教えているのです。

 

日本人は、努力家で、真面目です。ゆえに、それらに執着し、見えなくなってしまっているのです。

努力しなければ、手に入らない、幸せになれないのなら、そんなものは、多くの敗者を生み出すだけで、傷つけるために生きているようなものです。

 

何のことはない、生きて食べて、食べたものを出しているだけで、神様の創られた自然界は、動き、ぐるぐると共生のシステムによって、まわるのです。

 

その日その日にある食べ物があること以上に、幸せなことはない、愛するものと飲み食いすること以上に、素晴らしいことはないと聖書は教えているのです。

 

100Mをボルトのように走れる人は少ないのです。そういう人を批判しているのではなく、そういうひとはそういう人でいいということです。

 

 

あなたは、存在しているその時点で、すでに、意味を成しているのです。

 

そして、欲で、何かを求めて生きるから、それに縛られて、苦しんでいるのです。争いを勝手にして、誰かを蹴落とし、勝ち誇りたいという人生のようで、不必要な悪まで生み出してしまうのです。

 

何かがほしいと思うから、ムキになるのです。

 

そのほしいというものは、本当に意味があるのかとどこかで、冷静な目で歩まないと、それに呑み込まれてしまうのですね。

 

そして、聖書は、神様以外に、意味のあるものは、存在しないと教えているのです。

 

あらゆる人が欲しているものは、すべてが虚しいのです。音楽も、競技も、勉強も、それらは物質や物であって、そこに意味をなしえるのは、それらを創られた神様が存在しているからなのです。

 

もし、神様がいなくなってしまったら、それらはすべて一瞬で、滅びます。わたしたちは生きていることもできず、存在すらなくなってしまうので、歩くことも出来なくなれば、話すこともできなくなり、記事を書くことも出来なくなるのです。

 

「愛していると言ってほしい」「綺麗だと言ってほしい」「格好いいと言ってほしい」など、様々な欲に執着し、それらを与えてくれない相手を責める人がいます。自分の欲を与えてくれないので、不満だらけになるのです。

 

不倫されて、相手を責めることも、その相手に期待しているから、裏切られたと感じて、責めるのです。

 

人間は完璧な人などひとりもいないですし、神様を知らない人にそれらを求めても、はじめから到底無理です。

 

はじめから、ズレている人に期待しても、裏切られるのは、当然なのです。

 

猿が木に登るぐらい当たり前のことなのです。

 

 

人は、神なしでは、正しく行動する意味など失うのです。

 

すべてのものが空であるからです。そこに意味を与える神様が意味を与えていくのに、その神様が、いないと信じる人に、意味や期待を持っても、ズレた方向に行くだけなのです。

 

事実ではなく、宗教にはまっていく人も、神様に従わない宗教に、意味などないのです。

 

 

あらゆるものが、空であり、実は意味がないと分かると、人は、自然と質素倹約のような生活をしはじめます。自然のあるままに、正しいことをするだけで、息をして、食べて、出して、笑顔で納得して、無理せずに、生きるのです。

 

現代は、膨大な欲が正義であると教え込み、そこに意味があると探し求めますが、意味はなく、空なのです。

 

空を必死で掴もうとしても、掴めません。空振りして、あるはずなのに、納得できないどこか、心に穴が開いている状態になります。

 

 

そのような欲がいつまでも続くわけがありません。どんどんどんどん欲は、増していき、あらゆる悪を産んで、あらゆる罪が世に生まれ、被害者が大量に生まれるのです。

 

何でもないところに幸せはあり、小さなことですでに納得できるから、共生して、人は増えていっても大丈夫ですが、ひとりひとりの欲が多くて、争い奪いあうような人が多くなれば、傷ついていく人が多くなるのは、当たり前のことです。

 

現代人は、みな心を病んでいるとよく言われますが、小さい頃から脳に汚染された情報によって、考えている通りに動くわけですから、当たり前なのです。

 

ダウン症のようなひとたちは、能力がないとよく思われがちですが、彼らは不必要な悪を世に残さず、空気を吸い、食べて、出せることを続けるので、とても世の中を綺麗にしてくれているのではないのか?とわたしは思ったりします。

 

「出来る」ということは、ほどほどならいいですが、やりすぎると、何でもよくなくなってしまうので注意が必要なのですね。

 

悪意があるものに抗議するのは、良い事ですが、悪意があるわけでないひと、誰かを批判したりするのは、その人の勝手な思い込みを相手に押し付けているだけなのです。

 

神様は、必ず、悪意あって生きている人間には、悪が行くように導かれます。お金や地位や名誉という偶像を彼らに与えたとしても、それらは表面的なもので、意思のない土偶を沢山もっているだけで、意味がないものばかりです。

 

意味がない心がない人をどれだけ多くまわりに置いても、いつまでも不安は消えません。自分が悪をしていることを理解しているので、いつ裏切られ、策略に騙されるのか、恐れおののく人生を送るのです。

 

ですが、お金はそこそこ、地位や名誉を求めず、ほどほどで生きている人は、べつに恐れる必要はありません。誰かに命を狙われることもありません。偶然、犯罪者と出くわすことはありますが、前者ほど危険があるわけではありません。

 

悪をする人間は、自分が悪だから、他人も悪だと考えて、いつまでも不安な人生を送るのです。家族さえも安心の中にはいません。

 

そんな悪に怯えることなく、悪も知らないで、笑顔で生きている呑気な人と、どちらが本当に幸せなのでしょうか。

 

夜ぐっすり眠れる呑気な人と、お金やあらゆる偶像を沢山もっているが、常に不安と猜疑心に襲われている人です。

 

 

 

孔子は、晩年、何も考えていないような、とても楽観主義の弟子を持ち、彼を絶賛したといいます。彼は弟子だが、わたしは彼を師匠だと思っているというほど絶賛しました。

 

知的なことを話すような人は、実は縛られているのです。わたしもそのタイプのひとりだと思っているのですが、実はそういう人よりも、何も考えていないような笑顔で、呑気に生きている人は、神様の法則に従って清く生きているのです。

 

どれほどわたしのような人間が愚かなのかということです。

 

論理や物事の理を語る人は、よくよく考えると矛盾しているのです。

 

本当に矛盾していないひとは、語ることさえしません。イエス様も、情熱的に話したとは思えません。まるで植物や動物、子羊のように静かに、当たり前のことを当たり前に語っていったことでしょう。

 

わたしのように暑苦しい人間ではなかったはずです。

 

何かを熱く語るということは、何かが足りないと考えているからです。

 

これと同じように、何か愛する者が、執着となって、悪を生み出してしまう場合があるので、世界の物は、空であるということを再度確認して、ムキになるほどのことではないと冷静に行動したいものです。

 

 

 

最後に、では、欲はすべて悪いのか?となるかもしれませんが、悪くありません。

ほどほどの欲、食欲などは、生き物としては、当たり前のことです。

 

ですが、まわりが急かせて、誘導するような欲望はよくないということです。

 

人は、何かを知りたいという知識欲などもあり、自然とその人は、生きているだけで、何か無理なくしたいと思えるものがあります。それらをしていけばいいのです。人の数が多くなればなるほど、そのような自然な自分の良さを発見し、行動していけば、自然と誰かのためになります。

 

車や飛行機などが存在するように、それを考え作り出すことが、好きで、努力とは感じずに、行ってしまうものなのです。

 

それらが悪になるのは、それを発明した人というより、その後に利用しようとした者たちが、悪用していくのです。

 

仏教も釈迦の死後、まったく違うように利用され続けたようにです。

 

ですから、自然な欲を実行し、「努力しなければいけない」という強迫観念でもなく、本人は、努力している気もなく、まわりからは、努力だと思われてしまうことが重なって、社会がぐるぐるまわっていければいいのです。

 

ですが、今は、まるでロボットのように、はじめから一部の人間が作ったレールに沿って生きていかなければいけないような世の中なので、もっと自然に、さらに複雑な多種多様な神様の残された法則を解読するような社会になってほしいと思うところです。

 

何でもない存在のように押さえつけられている人には、本来持っている能力を開花できずに、終わってしまっている場合が多いと思われます。

 

実は、みんながあっと驚くような何かを持っていたかもしれません。

 

何かを固定することは、分かり易く正しく思えますが、それが逆に枷になってしまう場合があるということです。

 

空だから何もしないほうがいいということではなく、自然な発展を無理なくする方が遠回りしているようで、実は早いと言っているのです。無理して多くの悪を出すほうが発展の邪魔になるからです。空だった世界を意味のある神様が、意味を持って造られたことで、わたしたちの行っていることも、意味を持つようになります。愛や正義は人間にはありませんが、神様の存在ゆえに、愛や正義に従い実行していけるようにです。

 

 

 

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