聖書

アダムとはどういう人物だったのか

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
Pocket

アダムを知らない人はいないと思えるほど有名な人物でしょう。

人間のはじめの人、人類最初の人、それがアダムです。

 

アダムとエバと言えば、こどもでも知っているのではないでしょうか。

 

 

では、そのアダムはどのような人間だったのでしょう。

 

1、アダムは純粋な人だった

人は、あらゆる情報を見たり感じたりしなければ、人としての振る舞いをすることはありません。

例えば、狼に育てられれば、人は狼のように振る舞うようになるのです。

 

誰も教えられてもいないのに、日本語を話すこどもなどいません。たとえ日本人同士のこどもであっても、環境がフランスなら、その子は、日本語を話すことが出来なくなり、フランス語で話すようになるのです。

 

このように人は、その環境によって左右され、そこには、人間の二次的な善悪などは存在しないのです。

 

はじめの人アダムは、まさに何も知らない状態で土から造られたのです。

 

完全な無から有を創り出すことを「創る」という漢字を使います。

アダムは、すでに有として存在していた土によって造られたので、「造る」という漢字を使います。

 

「造」の漢字の中の之は、人が歩くことを示していると言われます。そして、土は、そのまま土です。口は一人を表す数です。人口と書くように、人には口は1つだからです。土の横についている「ノ」は、命を表します。

 

神様は、土で造られた人間にいのちの息を吹きかけられました。すると人は生きる者となったと聖書には書かれています。その時の「息」がノだと言われています。生きるにも、ノが使われているようにです。

漢字の中に隠された聖書物語>>

 

すでに存在した有の土から造られたはじめの人アダムは、0の状態からはじまりました。

 

現在生まれてくるこどもたちは、0からはじまっているとは言えません。ほぼ0ですが、細胞記憶など先代の人たちから受け継いだ遺伝子から影響をすでに受けているからです。

ですが、はじめの人アダムは、それさえもありません。

 

親から生まれていないのです。

 

意思などが存在しない土から生まれて、遺伝子的にも、0からはじまっているのですね。

 

脳による記憶も、遺伝子的な記憶も0のアダムは、自分が裸であることも理解していませんでした。

 

善悪の概念も何も知らない純粋な存在だったのです。

 

人は、言葉によって多くのことを理解します。言葉だけではありませんが、言葉という固定した表し方によってかなり明確にそれが存在していると認識するようになるのです。存在していない猿人や宇宙人、お化けなどのようなものさえも、存在しているかのように思い込めるのは、言葉による影響も大きいのですね。

 

現代人は、人を殺すことは悪だと認識しています。ですが、少し前まで、人を食べることは善であるという文化のほうが多く人間は認識していました。

なぜ人を殺してはいけないのか>>

 

現代人があきらかに悪だということさえも、それが善だという教えの環境に育てば、人は、それを善だと錯覚するほどロボットのような存在なのです。

ロボットは、人間が打ち込んだプログラミングにそって、善悪関係なく、行動します。

人間にとってのプログラミングとは、言葉の影響力が大きく働いているのです。

 

もちろん、自然界やあらゆる五感などからも脳に情報をもたらしてくれます。これらの情報を大切にしている人は、悪を悪だと否定できるのですが、多くの人は、悪であっても、善だと認識しているほど、他の器官からの情報を外の枠に置いてしまっているのです。

 

ですが、アダムには、枠の外に置くということさえも、存在しません。なぜなら、はじめの人間で、アダム以外には、人はいなかったからです。

2、なぜアダムは言葉を使えるようになったのか

人はアダムしかないのに、なぜアダムは、言葉を使えるようになったのでしょうか。

 

それは、アダムよりも前に、人間の姿をした神様が存在していたからです。

 

聖書には、アダムは、神様に似せて形作られたと書かれています。

 

アダムは、神様の姿を似せて造られた存在なのです。

 

聖書には園を歩く神様のことが書かれています。

 

創世記3章8節

彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。

 

アダムとエバは、神様が園を歩かれる足音を聞いたのです。

 

足のある人間の形に似た神様が、創世記にはすでに存在していたのです。

これがイエスキリストなのです。

 

多くのひとたちは、イエスキリストは2000年前の人だと思っていますが、イエス様は、アダムよりも前に存在し、そのイエス様に似せて、アダムは造られたのです。

 

イエス様を生んだとされるマリアは、そのことを理解できませんでした。イエス様は、マリアのことを「女」と呼んでいます。「あなたはわたしと何のかかわりがあるのか」とさえ言われています。イエス様は、マリアのお腹から生まれたのですが、彼女は処女であったので、彼女のお腹から生まれはしても、どこから来たのか、分からないのが、イエス様なのです。イエス様はマリアから生まれたのですが、アダムがイエス様に似せて造られたのなら、実は、マリアはそのイエス様の子であるという不思議な関係になるのです。子なのに、おじいちゃんよりも前の親になるという不思議な話です。

はじめから存在していたイエス様が、時を超えて、現れたのが、2000年前で、イエス様は、アダムよりも前に存在していたのです。

 

そのイエス様からアダムは、言葉を教わったのです。

 

神様は、三位一体の神様で、この世界そのものである神様、人間と同じ体を持った神様、霊的な神様である聖霊様の3つです。

 

その神様に似せて造られた人間も三位一体です。

 

人間は、人間だけでは生きていけません。地球がなければ、人間は生きることもできなければ、愛を語ることもできません。また、脳の電気信号だけで生きているわけではありません。電気信号を脳の中で、的確に流すための大本、霊がなければ、人は、動くこともできないのです。動物も三位一体の存在ですが、人間と動物の違うところは、体や作りが、神様と同じだということです。

ですから、動物は、人間の姿をみると、なぜか止まったり、恐れたり、違う存在のように振舞ったりする不思議な光景を表すのです。

 

人間よりも強い生き物であっても、人間に慣れていない動物ほど、人間には、敬意を表す不思議があるのです。

 

世界である神様は、「事実」こそが、善であり、正義です。

 

本当の正義や愛とは、この一時的なもののことを言います。そして、一時的な悪とは、これらを否定し、破壊する存在や思想のことです。

 

世界こそが、神様の細胞の1つのようなものなので、神様は、善であるしかありえません。自分を傷つけることになるからです。

 

善であるしかない、神様から、言葉をもらったアダムは、善のプログラミングしか入り込むことができなかった純粋の中の純粋な存在だったのですね。

3、純粋すぎるので、悪にうといアダム

アダムは、善のプログラミングしか知らなかったので、悪という概念や存在を理解できませんでした。

現代人として生まれ育っている人は、「嘘」という存在を知っています。

 

ですから、他人の言っている内容を「これは嘘じゃないのか?」と疑うことができます。こどもでも、嘘?と疑うことが出来ることでしょう。

 

ですが、アダムは、「嘘」という悪も知らなかったのです。

嘘を知らない人は、嘘を疑うことなどできないのです。

 

アダムは、エバを神様から与えられました。アダムは、神様から教えられたことをエバに教えました。エバもまた、純粋な女性でした。

 

そこに、悪魔が入り込んだ蛇(ドラゴン)が現れて、嘘をつかずに、歪曲した言葉で、エバを誘導し、エバは、善悪の木の実を食べてしまったのです。

 

このことから解かるように、神様は、悪魔に善悪の木の実以外での策略は、禁止され、また嘘をつくことを禁止されていたと思われるのです。

 

悪魔である蛇なら、わざわざ善悪の木の実ではなく、他の状況を作り出して、アダムやエバを誘惑することもできたでしょう。嘘も付けたはずです。ですが、蛇ができたのは、善悪の木の実に関することで、アダムやエバの自由意思による決定でした。

 

食べないという選択枠を十分選ぶこともできる状況だったのですが、エバは、欲に負けてしまい、善悪の木の実を食べてしまうのです。

 

そして、アダムも、そのエバが食べても、死んでいないのをみて、さらに神様のように賢くなれると知って、アダムも食べてしまったのです。

 

アダムは、神様が与えたこの女がわたしに勧めたのですと言い訳を神様にしました。

 

悪をはじめて体験したアダムは、完全な善である神様を強烈に恐れたのですね。

 

創世記2章23節

そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。

 

このように、アダムは、エバを得た時、自分の体の一部だと感動したにもかかわらず、恐怖のあまり、言い訳として、エバを差し出し、さらには、神様のせいにまでしようとしました。あなたが与えた女という言い方は、そういうことになるでしょう。

 

それほど、はじめての悪をしたことの恐怖は、激しかったということです。

 

わたしもそうですが、頭が混乱して自分の悪を感じてしまうと、人は、悪をさらけ出してでも、逃げようとしてしまうものです。混乱しているという脳も体も、正常な状態ではないので、正しい行動が出来なくなるのです。そして、何もかもが、はじめてのアダムにとって、善悪の木の実を食べたということは、恐ろしく恐怖することだったのです。

 

わたしたち現代人からすると、どうしてそれほど恐れるのか?と思えるかもしれません。それほどわたしたちは、悪にひたっているかもしれませんが、善であればあるほど、悪をしてしまったことへの心の痛みは、計り知れないのです。

 

愛していたエバを差し出し、すべての基である神様を批判するほど、混乱したアダムは、このことからも、どのような人物だったのかが伺えます。良くも悪くも純粋だったということです。

 

その後も、アダムは、はじめの息子カインの育て方やカインの子孫の在り方に失敗していきます。

 

アダムは、ほとんど自然界から育った存在です。それ以上のことを考える能力が欠如していたとも言えます。特に悪に関する知識がなく、それを管理することができませんでした。わたしがアダムであっても、そうなったことでしょう。わたしは、あらゆる歴史、学問、知識、書物など、先人たちの知恵を知ることが出来るから言えることで、もちろんアダムには、歴史もなければ、1つも書物も持っていなかったからです。親や祖父母からの教えすらないのです。

 

はじめの息子カインは、弟アベルを殺してしまいます。

カインとはどのような存在なのか>>

 

そして、そのカインの子孫たちは、次々と悪を発明していくのです。

カインの子孫。カイン族>>

神様の言葉さえも、自分たちの都合のいいように利用していきます。

 

そういった、子孫たちの悪への道を親であったアダムやエバは、止めることが出来ませんでした。止める方法を思いつかなかったことでしょう。

何と言っても人間はじめての子育てだったからです。また、この時代には、律法という神様から与えられる基準さえも存在していませんでした。

モーセの時代まで律法を与えられなかった理由>>

 

わたしたち現代人は、生まれた時から悪が存在している世界で、それが当たり前だと思って暮らし始めるのですが、アダムとエバは、悪がなかった世界を体験していたのです。そこから悪が生まれ始める世界へと変わることは、どれほどの恐怖だったことでしょう。未知なるものが、次々と発明されていくからです。

 

アダムとエバが出来ることと言えば、神様から教わったこと、自然界から教わること、はじめの教えに立ち戻ることだったでしょう。

 

ナショナリズムとリベラルの最初の戦いとさえ言えるかもしれません。

 

保守で、はじめの教えを大切にする思想と、新しく一見利益になり正しくみえる思想が、分離されていくのです。

 

いつの時代も、リベラルは、大切な基礎を置き去りにして、世を破壊しようとするものなのですね。

 

アダムとエバのこの保守的な思想は、のちにノアまで伝わり、そのノアが、新たな世界の人間社会の基礎を作り出すことになります。その教えが、多神教になったり、あらゆる宗教へと歪曲していき、現在に至るので、世界中の宗教には、不思議と共通点が数多く存在しているのです。

 

 

4、アダムは複数いたのか

聖書に書かれているアダムという名前は、実はヘブライ語で、複数形を表している名前なのです。

 

このことから、実はアダムは、二人・三人・四人と複数したと解釈してくる人がいるのですが、そうではありません。

 

このアダムの名前が複数形なのは、本当のことですが、違うアダムが存在したということではありません。聖書を普通に読めば、どこにも二人目のアダムなど書かれていないのです。

 

では、なぜ、複数形の名前なのでしょうか。

 

それは、アダムから生まれた子孫たちには、アダムの遺伝子という設計図が組み込まれているからで、それらは、アダムと言えるからです。

 

あなたと愛する人の間に、子が生まれたら、どうして、ふたりに似た子が生まれるのでしょうか。

 

それは、あなたたちの遺伝子が、子として、遺伝子に継承されているからです。目で見える形で、人は、遺伝子の存在を把握できるのです。

これは人間だけではなく、あらゆる植物動物にも言えることです。

 

最初の人アダムは、たったひとりですが、そのアダムから生まれた子すべて、アダムの遺伝子が伝わっているのです。

それは善の遺伝子が大半ですが、一部、原罪という悪までも、わたしたちは、アダムから受け継いでいるのです。

 

 

聖書には、アダムの息子セツのことが書かれています。

最初の息子カインは、殺人をおかし、そして、二人目のアベルは、死にました。その後、セツが生まれるのですが、そのセツは、アダムにそっくりだったと書かれています。

このように、のちに大量のアダムが生まれていくので、アダムという名前は、複数系になっているというこれもまた、聖書の偉大さを表しているのです。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントを残す

*

CAPTCHA