歴史

自由とは何か

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自由とは一体何なのでしょうか。

人間の歴史をみると、その自由のために戦争を行った人もいます。

 

組織を作り始めるとルールというものが作られていきます。

組織の最小単位は、家族ですが、家族にもルールがあり、そのルールを作るのは、親です。

親の言うことを聞かないこどもは、どんどん厳しい制裁が下されて、自由を無くしていきます。

その圧迫感が嫌で自由になろうとする子もいます。

 

ローマから自由になろうとイスラエル人は、反乱などを起こしました。

カトリックは、自由を封じて、圧力をかけました。

江戸幕府も、その他どんな組織も、この自由との葛藤のバランスで崩壊したり、強化されていったのです。

 

組織を作るということは、この自由は切り離せないテーマになるということです。

1、本来、この世界は神の基の自由からはじまった

神様は、この世界を信じられないほど美しく、規則正しく作られ、それを今でも維持され続けています。

明日も、明後日も、起きて歩くことができるのも、神様が法則を維持されているからです。

 

人は、それが当たり前だと錯覚してしまいますが、この世界が偶然できていると考えているのなら、この世界は、ありえない世界だという証拠になるのです。

全知全能の神様が確実に存在する証拠>>

全知全能の神様は、もの凄く規則正しい世界を創られ、それをみて、「良い」と言われました。

創世記1章31節

神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。

 

そして、アダムとエバを造られ、アダムとエバは、ほとんど100%自由に暮らしていたのです。

神様が与えたルールはたった1つでした。

善悪を知る木の実を取って食べてはいけない

たった1つのルールで、あとは何をしても自由だったのです。

 

 

アダムとエバは、悪というものを知りませんでした。フランス語を勉強もしていないのに話せる人はいません。それと同じように、知らないことは、行うことができないのです。ですから、悪がない人間には、自由を与えてもなんら問題は無かったのです。

 

しかし、人間は、神様のルールを破り、蛇の誘惑に誘導され、悪を理解してしまいさらには、悪を実行してしまったのです。

悪とは、神様が創られた「事実」を無視して、破壊していくことです。

 

世界が破壊されていけば、人間も、その他の生き物の生きて行くことはできません。ですから、神様は、すべて自由だった人間が悪を知り、実行した時から不自由を与えられたのです。

 

悪をすれば、試練や苦難が世界に生まれるというプレゼントを与えられたのです。

悪をしても、良い事しか起こらなければ、人は、悪を行い続けて、世界を破壊しつづけ、自らを追い込んでいくことになるからです。

 

このように、この世界は、本来は、自由だったのです。

人間も自由であり、「事実」どおりに破壊せずに、生きていれば、自由を無くすことはありませんでした。

ですが、「事実」を無視した考え方、悪が、その自由を奪ったのです。

 

聖書は、すべての人が罪びとであると教えます。生まれた時から人間には、原罪という罪が存在し、その原罪は、子が親の姿に似るように、アダムから受け継がれてしまった罪だと教えます。

 

この原罪はないという人がいますが、ないのなら、なぜルールを作るのでしょうか。

家族という組織を作っていくと、ルールが必ず出てきます。

なぜルールを作るのでしょうか。それは、正しくないことを人間は、行ってしまうからです。

こどもであっても、悪があることを自然と生活の中に取り入れて、ルールを設けるわけですね。

 

悪があり、原罪が存在しているから、人間は、いつまでも、このルールに縛られて生きて行かなければいけないのです。

悪を行えば行うほど、どんな人間も、束縛されていきます。

 

例え、世界の富の9割を持っていたとしても、悪をすれば、必ず修正力が働き、そのものは束縛され、最後には滅びてしまうのです。

悪をすることが出来なかったアダムとエバは、とても自由で、幸せだったということです。

 

本来、人間は、自由であることを望むものです。ですが、それは神の基の自由なのです。

人間がどう考え、どう思っても、神様が創られた「事実」という世界には、人間は逆らえません。逆らおうとするだけ頭がおかしいのです。

 

もし、みなが自由になりたければ、神様の基準をまずは持たなければ、決して自由になることはできないということです。そこにしか本当の自由は、存在しないのです。天皇が何をいっても、大統領が何をいっても、法王が何を言っても、それが神の基で発言していなければ、何の意味もなく、人に不自由を与えるものになるのです。

 

そこで、神様は、モーセの時代に、基準となる聖書を与えられたのです。

モーセの時代まで律法を与えられなかった理由>>

2、規制と緩和の戦い

カトリックは、激しい弾圧を行い信じられないほどの人々を手にかけてきた歴史があります。

プロテスタントは、カトリックのご都合主義な基準を批判したので、カトリックは弾圧を繰り返して、魔女だ、異端だと一方的な裁判で裁いていったのです。

 

これは、確かにおぞましい歴史の1つですが、では、カトリックは、すべて悪いかといえばそうではありません。

 

ローマ帝国は、多神教だっただけに、世界には、さまざまな正義や愛が存在し、犯罪さえも愛だと錯覚して、行う文化が存在していました。

ですから、反乱も絶えることはなく、犯罪も多発していたのです。

そこに、ローマ帝国は、聖書という基準を設けることによって、世界に聖書の常識を植え込んで行ったのです。

 

すると、反乱や犯罪が、劇的に無くなり、平和が続いたのです。

 

その恩恵に預かろうと、領主や貴族、王族などが次々とカトリックになっていったのです。カトリックを取り入れれば、下から反乱を起こされたり、犯罪を劇的に減らすことができたからです。

 

カトリックは、王族貴族のさらに上の存在として、世界を激変させ、平和を与えたのです。

 

その平和をカトリックは、守ろうとして、そのカトリックに不平不満をいう者たちを弾劾したというわけです。

 

プロテスタントは、カトリックのすべてを否定したのではなく、あまりにも権力が集中して、私利私欲に走った基準を打ち出しはじめたカトリックに抗議したのです。

 

ですから、フランス革命が起きて、カトリックや王族貴族が、裁判にもかけられずに、虐殺されていった時も、プロテスタントは、カトリックの意見を聞いて、王族たちを守ったのです。

 

悪魔宗教は、「自由自由」とプロパガンダを広げましたが、プロテスタントは、ただ正しい基準を聖書から読み解こうとしただけで、自由になろうとしたわけではないのです。

 

聖書には書いていない、お札をお金で買ったら天国にいけるなどのカトリックのご都合主義に対して、抗議しただけで、平和を壊そうとしたわけではないのですね。

ですから、その自由になろうとした動きは、急激に縮小されていき、アメリカ大陸へとプロテスタントは逃れて行ったのです。

 

大航海時代を経て、聖書の基準を広め、奴隷にしたり、原住民を手にかけたことを悪いとみなす歴史感が異常に広がっていますが、そんな生易しい話ではないのです。連続殺人犯を処刑するひとを批判しているようなもので、聖書の基準がないところでは、人間が人間を食べることが当然のように文化となって存在していたので、聖書の基準を与えて、人間には、「人権がある」ということを広めるために、奴隷にしていったのです。

 

人は、悪であっても正しいと思い込めるので、いくら人を食べてはいけないといっても、それを邪魔されると攻撃的になったりするのです。

サイコパスは、特殊な人たちだと思い込ませようとしていますが、そうではありません。人は、悪であっても、愛だとか、正義だとかと思い込めるものなのです。

脳が汚染されてしまえば、悪であっても、正しいと思い込めるのです。それはわたしも例外ではありません。

 

本当の愛とは何なのか>>

 

明治維新も、幕府側と朝廷側に分かれてしまいましたが、開国か、鎖国か、規制と緩和どちらが正しいのかというもので、争いました。

結局、正しかったのは、福沢諭吉などのどちらも正しいと分って、争わなかった人たちでした。

明治維新を起こした人たちも、それに気づいて、なるべく争いを無くすように動いたのです。幕府側もまた開国派も正しいことを理解して、自ら退いたのです。

 

ですから、明治革命と言われず、日本だけは、明治維新と言われるようになったのですね。

 

親が子を叱るのと、親が子を優しくするのと、どちらが正しいのかを言い合っているようなもので、どちらも正しくて、どちらも正しくないのです。

 

ですが、言えることは、聖書の基準、そして、神様の基準を広げて行かなければ、絶対に自由など手に入らないということです。

 

 

お金という偶像が基準でしょうか。地位や名誉が基準でしょうか。学歴が基準でしょうか。そんなものは、最初には存在しなかった後付けの思い込みであり、偶像にしかすぎません。思い込み、錯覚なのです。

偶像とは何なのか>>

その思い込みのせいで、多くの犯罪を肯定させてしまっているから、犯罪が多発しているのです。

 

人間を基準にすれば、必ずご都合主義になります。聖書は、固定され誰にでも読めるようにされています。変わらず神様の固定された基準を何千年も保って来たことが、今の現代人の平和になっているのです。日本人ならほとんど100%の人が、聖書の恩恵の上に、生きているのです。

 

人を基準にすれば、人権は当たり前ではないのです。犯罪者が自分たちを正当化した言葉を言い続けることのほうが正しくなってしまうのですね。

人には、愛や正義はないから、悪を選ぶことができるのです。

 

ですから、神の基準に基づいて、「事実」にそった価値観で、全身全霊で、犯罪者の正義を否定していくのです。存在そのも、地球や世界そのもので、犯罪者の正義や愛を否定するのですね。

 

それなしでは、人は、永遠に自由を手に入れることはできないのです。

3、イエスキリストによって自由になる

この世界は、信じられないほど、自由になりはじめました。それもイエス様の十字架刑からはじまります。

権力者たちのご都合主義で、世界が支配されていた末期の時代に、イエス様は生まれました。

 

そして、イエス様は、愛を表し、自己犠牲という、犯罪者とは真逆の硬い意思で、いのちをかけて愛を表したのです。

 

すべてをわたしたち罪人のために、身代わりになって死んでくださったのです。

 

権力者や強いリーダーが、武力や力で、世を変えたとしても、それは自由には成りえません。

 

一部の人間がどれだけ苦労しようとも、本当の平和には、ならないのです。

 

イエス様は、そんな強いリーダーや主導者とは真逆で、まるで子羊のように自らのいのちを十字架刑にささげたのです。

 

人の目からみれば、完全に負けている出来事なのに、なぜ何十億もの人々が、その完全に負けたようにみえるイエスキリストを崇めるのでしょうか。

 

それは、時代を超えたすべての人の自由や愛、平和をもたらしたからです。

 

 

ローマが滅びる、カトリック、プロテスタント、そんな小さなものではないのです。過去・現在・未来、これから続くすべての時間に渡って、続いていく自由への道をイエスキリストが実現したのです。

 

その死んだ瞬間は、思想だったかもしれませんが、実際に、わたしたち奴隷国民にも、表向きにしろ、人権が手に入るという奇跡、女性にも権利が生まれ、あらゆるひとたちが、愛や平和を口にできる世界になったのも、イエス様のこの行動なくして、ありえなかったのです。

 

誰が、権力者にものを言えるのでしょうか。人は、大切なものを持てば、それを守るために、悪であっても容認し、悪をしかたなく行ってしまうものです。権力者に逆らうことなど本来はできないのに、いのちをかけて、権力者に立ち向かったのが、プロテスタントだったのです。

 

この流れは、日本にも広がり、明治維新へとつながっていきました。

 

今でも中国が聖書を禁止するのは、その聖書の力を恐れているからです。

 

人々に基準を与えてしまう聖書は、ご都合主義の正義を破壊していき、人々に愛や平和の自由を与えてしまうのです。

 

劇的に犯罪を減らすだけではなく、権力者の犯罪までも断罪できるようにまでしたのは、イエス様が十字架刑にかかられたおかげなのです。

 

すべての人の原罪の問題を解決され、すべての存在から綺麗にしていってしまうイエス様の事実は、これから先も続いていくのです。

救いとは何なのか>>

聖書は、どうすれば救われると説いているのか>>

 

科学も学問も、イエス様の十字架刑がなければ、自由にはされなかったのです。今の世界のほとんどの恩恵は、聖書なのですね。

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