思考の変化

正しい聖書解釈とは

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キリスト教・ユダヤ教・イスラム教などは、聖書を基準にして、脳に聖書のプログラム、正しい基準を植え付けて、それらに従って生きていきます。

洗脳の真実>>

 

これらの宗教は、聖書という固定された書物があることで、世の中の混乱を防ぐのです。

これらの一神教の宗教は、多神教や仏教などと比べると、圧倒的に宗派が少ないのは、書物が固定されているからなのですね。

 

ですが、聖書という固定された書物がある宗教でも、なぜ多くの宗派に分かれてしまっているのでしょうか。

 

それは、固定されている聖書であっても、聖書解釈が違ってくるからです。

例えば、コップが目の前にあったとしましょう。

 

これは、写真ですから、100人が同時に同じ方向から同じ画像で、このコップをみることができますが、現実ではそうは行きません。

人間と人間は、同じ位置には存在できませんから、必ず、立っている位置がズレます。

 

そうすると、同じ方向から同じコップをみることは出来ないのです。

同じコップであっても、その人の立場やその人の立ち位置、考え方や物の考え方が違えば、まったく同じものも、違うように見えてしまうのです。

 

 

では、聖書も同じで、正しい解釈など存在しないことになるだろう?と思いますが、そうではありません。

 

聖書の正しい解釈、聖書の正しい見方は、存在しています。

 

聖書は、どのように解釈して、読んでいくことが正しいのでしょうか。

1、聖書は、聖書によって解釈する

これは、世界地図ですが、日本人の皆さんなら、何か違和感を感じないでしょうか。

日本人が普段からみている世界地図は、日本を中心にしている地図ですが、これはイギリスを中心にしている地図なのです。

 

世界地図は実は1つではなく、それぞれの国を中心にして表しているので、国の数だけ世界地図があるほどです。

オーストラリアの世界地図は、日本人からみると、とても面白いです。

日本地図は、逆さにしたような世界地図になるからです。

 

このように、同じ世界を見ようとしていても、それぞれの国の人々は、それぞれの国の常識や価値観をすでに脳に植え込まれているということです。

 

わたしたち日本人は、日本語でどうしても物事を考えてしまいます。

 

すでに、わたしたち日本人は、日本という色眼鏡で、世界の物をみて、判断してしまっているのです。

 

すでに、脳に入れられている情報、プログラミングには、嘘もあれば、間違いもあります。すべて正しい情報だけの脳に入れている人など存在しないでしょう。

 

では、すでに自分たちの脳が、汚染されていたとしたら、世界の物を正しく見ることができるでしょうか?

 

 

サングラスを付けながら、正しい世界の色で世界を見れる人が本当にいるでしょうか?

 

わたしたちは、それぞれの色眼鏡をかけて、世界をみているのです。

 

 

犯罪者の色眼鏡が真っ黒な色眼鏡だったとしたら、わたしたちと同じ世界をみているようでいて、その犯罪者は、まったく違う色で世界をみていて、彼にとっては、それが正義であり、愛であり、正しいく見えてしまうのです。

 

こういう犯罪者の色眼鏡は、「自分勝手・ご都合主義」という色眼鏡をつけて生きているわけですね。

 

ですが、犯罪者ではない普通の人の色眼鏡は、ある程度、統一されているのです。

「人を殺してはいけない」という色眼鏡をつけていたり、「人を傷つけてはいけない」という色眼鏡を付けているわけです。

 

それらの価値観は、どこで統一されているのでしょうか。

 

現代人なら、「憲法」です。

 

憲法には、「人権」がうたわれていて、人には生きる権利、大切にされる権利があると世の中に広められていて、その世界でわたしたちは、言葉も知らずに生まれ育つので、それが正義だという色眼鏡が、知らないうちに、脳にインプットされているのです。

 

「無宗教だ」とか、「無神論」だという現代人がいますが、彼らは彼らの脳にすでに宗教の価値観がインプットされていることに気づいていないだけなのです。

 

その憲法は、聖書から生まれました。中世まで、憲法は存在していませんでした。

 

憲法とは、権力者を縛るルールです。中世までは、「権力者の色眼鏡で世界を見なさい!」という正義がまかり通っていました。

 

権力者の都合にあわなければ、人は殺されても、文句は言えなかった時代があるのです。

それは日本でも同じでした。武士などに逆らえば、斬られてしまうということも実際にあったのです。

 

それらの時代の人間は、「人権」というものを理解していない色眼鏡で世界をみていたので、人を自分の色眼鏡の正義で、殺してもよかった時代があったのです。

 

それを世界中に中止させ、人を殺してはいけないと広げたのは、「聖書」でした。

 

では、その聖書も、自分勝手な色眼鏡で、読めるものなのでしょうか?

 

現代人のほとんどの人は、犯罪者を否定できる色眼鏡を持っていることでしょう。「犯罪者」と「犯罪否定者」は、どちらが正しいですか?と言われたら、多くの人が、「犯罪否定者」が正しいですと答えてくれるでしょう。

 

聖書を読む時も同じです。

 

聖書を読むにも、正しい読み方という色眼鏡が必要なのです。

 

犯罪者に、「人を殺すことは悪だよ!」と言っても通じません。彼らは彼らの自分勝手な色眼鏡の正義や愛を心から信じているので、わたしたちの統一された正義などおかまいなしに、世を混乱させ、悲劇を生み出すのです。

 

聖書を読む時も、「自分の勝手だろ!」と思いながら、読んで、正しく聖書が読めるわけがないのです。

 

では、どうすれば、聖書は、正しく読むことができるようになるのでしょうか?

 

それは、本当に聖書を理解したいのなら、聖書の色眼鏡を付けて読むことなのです。

 

意味が分るでしょうか。

 

アメリカのことを心から理解したいと思うのなら、わたしたち日本人の常識(色眼鏡)は、横に置いておいて、なるべくアメリカ人の目線で、アメリカを見なければ、本当のアメリカは、理解できないのです。

 

アメリカ人がズカズカ日本に入って来て、平気で銃を持って街中を歩いていたとしたら、日本人は驚くでしょう。日本のことを知りたい、日本で生活したいのなら、アメリカの法律や常識ではなく、日本の法律や常識を理解しないと、変な目でみられてしまうのです。

 

現代人は、学校宗教団体で、学校宗教団体の色眼鏡を小さい頃から脳に植え付けられています。

 

そして、進化論という宗教の色眼鏡を植え付けられ、進化論的な歴史を脳に植え付けられます。

 

お猿さん→猿人→道具を使うようになった→縄文人→日本人 みたいな色眼鏡です。

 

もし、このような色眼鏡を「絶対に外さないぞ!」と思いながら聖書を読んだ人がいたとしたら、その人は、聖書を理解できると思うでしょうか。

 

犯罪者の色眼鏡をつけた犯罪者が、「絶対に外さないぞ!」と思いながら、「人を殺してはいけない」という言葉を聞いても、通じないように、進化論という色眼鏡をそのままつけて、心から信じ込んでいる人が、聖書をその色眼鏡でみずに、読めるはずがないのです。

 

進化論の正体 嘘と真実>>

 

聖書をどれだけ読もうとしても、その人の色眼鏡が汚染されていたら、聖書がどれだけ正しくても、正しくないように感じてしまうのです。

いくら読んでも、「理解できない・・・・」となってしまうのです。

 

進化論という色眼鏡を付けている牧師が、聖書のことをどれだけ毎週教えてメッセージをしていても、その牧師は、いつまでも聖書を違った解釈で、信徒たちに教え続けて行くのです。

 

リベラル派というものは、あらゆる色眼鏡を好き勝手につけて、聖書を読めばいいのですよ(笑顔)

 

と言ってきますが、それが嘘なのは、分かったでしょうか。

 

彼らは、犯罪者の思考のまま、聖書を読みなさい。それが正しいのですよ(笑顔)

 

と言っているのです。

 

そんなことをして、正しく聖書が読めるわけがないのです。彼らのような偽牧師や偽神学者が、多くなればなるほど、固定されているはずの聖書の宗教でも、多くの宗派が出てきて、カルト宗教が多発していくのです。

 

では、聖書を本当に理解しようとするのなら、聖書の色眼鏡を付けて、聖書を読み、他の書物ではなく、聖書のことは、聖書から調べ、引用して、聖書を理解していくことが、大切だということです。

 

わたしも含めて、自分たちの色眼鏡が汚染されていない人など存在しません。

 

だからこそ、聖書の色眼鏡に近づくように、脳を洗い流して、聖書を読まなければ、正しい解釈など、存在しなくなるのですね。

 

包丁は、料理に使えば、便利で役に立つ道具ですが、好き勝手に振り回せば、凶器になるのです。

 

カルト宗教は、聖書という道具を好き勝手に自分たちの都合のいい解釈で振り回すから、悲劇を産むだけで、正しい聖書の使い方をすれば、憲法のような「人権」を生み出して、世界から劇的に、犯罪や人殺しを激減できる素晴らしいものになるのです。

 

ですから、正しく聖書を理解したいのなら、今あなたの脳に入っている情報は、こどものように純粋に0のような状態にして、聖書の情報を脳にいれて、聖書の色眼鏡にしていかなければ、あらぬ方向に持っていかれるということです。

 

聖書とあなたとの間に、牧師や神父、神学者などの色眼鏡を入れるのではなく、

 

聖書とあなた という直通の関係を築くことが大切なのです。

 

聖書とあなたの間に、エンジェルマップを入れるのではなく、聖書とあなたという直通にして、余分な色眼鏡を間にいれないことが大切なのです。

2、現実と一致しているのか

聖書という神様が人に与えた道具を利用して、人間は、多くの犯罪をおかしてきました。

聖書は物凄く力があり、世界を激変させてきました。

 

今でも中国は、聖書を禁止しています。それはなぜでしょうか。

 

それは、聖書という色眼鏡をつけられると、世の中の本当のこと、真実がみえる脳を生み出してしまうので、中国共産党のご都合主義の正義を見破られてしまうからです。

 

人が勝手に作ったご都合主義の愛や正義を聖書は、打ち砕いてしまうのです。

 

汚染されていた脳が、洗い流されて、綺麗にされてしまうと、まったく違う世界が見えるようになってしまうので、聖書を禁止する国などが存在し、日本も禁止されていたのです。

 

カトリックをあまり良いものだとは思っていない人もいますが、カトリックは、ヨーロッパ世界に、1つの固定された基準を多く作り出し、犯罪や戦争、反乱を圧倒的に激滅したのです。

 

聖書という1つの固定された正義が広がるまでは、ありとあらゆる正義が、それぞれの領土、それぞれの民族、それぞれの国のようなもので、好き勝手に存在していたので、嘘や犯罪も正義であり、人さえも食べてもいいという正義があったので、ローマ帝国は、常にあらゆる反乱に手を焼いていました。

 

多神教だったローマ帝国は、あらゆる価値観を寛容にゆるして、ローマ帝国の連邦制に参加させようとした政治目的の多神教であり、宗教を政治のために利用していたのですが、一神教というキリスト教を取り入れて、聖書という固定された価値観をあらゆる民族、あらゆる言葉、あらゆる領土に広めることで、圧倒的に、犯罪や反乱を激滅したのです。

その効果があまりにもあり、平和にしていくので、王族や貴族、領主などが、次から次へとキリスト教になろうとして、カトリック信者へとなっていったのです。

 

ここまでは、カトリックは、世の中を平和にしていた時代だったかもしれませんが、その平和が当然のようになり、何百年と経ってしまうと、人は平和ボケしてしまい、その組織の利権にしがみつき、私利私欲に走ってしまうようになるのです。

 

カトリックの中にスパイのように入り込んだ悪魔宗教、起業家などの策略によって、賄賂が流され、カトリックが腐敗していくと、聖書にはまったく書かれていないカトリックのご都合主義なルールが広がりはじめます。

 

お金で、お札を買えば天国にいけるというわけのわからない、教えまで始めて、金儲けをしようとしはじめるのです。

 

それに反対する聖職者は、異端だと言って、処刑するなどを行いはじめました。

 

カトリックの組織が白だと言えば、黒色も白になってしまうような、悲劇が起こり始めたのです。

 

王族や貴族、領主も、カトリックには逆らえません。もし、カトリックに歯向かえば、カトリックの教会に通う信者たちに、その国の王様や領主が悪い存在だといい広げられて、自分たちが民から攻撃され、新しいカトリックの王様などを擁立されてしまうかもしれないからです。

 

それほど、カトリックは、巨大な権力を持っていたのです。

 

カトリックは、聖書を民には読ませませんでした。聖職者だけが聖書を読めると規制していたのです。そうすると、一般人たちは、聖書と見比べて、カトリックを精査することが出来ません。カトリックは、好き勝手に、聖書を利用しはじめたのです。

学校も教会が行って文字の読み書きも教会が教えていたのです。

学者も科学者も、みな聖職者であり、医者も聖職者が多く、学問さえもカトリックの想いのままだったのです。

 

ですが、カトリック信者の中にも、誠実で、真面目な聖職者がいました。学問的に、そして、論理的に考えられる釈迦のような思想、学者タイプの聖職者がいて、その聖職者たちは、聖書を読めるので、カトリックの腐敗、間違った聖書解釈に、気づき始めました。

 

そして、教会に来る信者たちに、真実の聖書の内容を話しはじめたり、カトリックにそれはおかしいと訴えはじめると、カトリックは、カトリックの一方的な裁判を開いて、彼らを無理やり悪だとして、裁き、異端や魔女として、殺していったのです。

 

平和を作り出してきたカトリックを崩壊させようとするような聖職者や信者は、世の中の平和を乱すとして、無理やり処刑していったのです。

 

 

そこで、迫害されはじめた聖職者たちは、聖書の正しい解釈を世の中の実際の現象で、説明しはじめたのです。

 

それが、コペルニクスやガリレオ、多くの学者兼、聖職者たちだったのです。

 

カトリックは、当時の学問であった、天動説を心から信じていました。ですが、実際の世界の出来事から地動説を唱え始めたのです。

聖書には、天動説ではなく、地動説が書かれていると説明をはじめたのです。

 

それから、多くの学問的な現実の法則で、聖書が解釈されはじめました。そうすると、カトリックは、現実を無視した教えを続けていることから、逆に異端宗教だと言われるようになる地域まで出てきます。

 

黒なのに、白だと嘘をつくカトリックに対して、それこそが不正で、不誠実だと抗議しはじめたのです。

 

それが、抗議する者、プロテスタントなのです。

 

 

そして、そのプロテスタントの手法を悪魔宗教も利用しはじめたのです。

 

プロテスタントは、カトリックから迫害され、殺され続けました。抗議するような者たち1000年間で、6000万人もの誠実な人たちをそのご都合主義な聖書解釈を利用して、殺してきたという人もいます。

 

そして、そのプロテスタントと同じように、弾圧されていたのが、悪魔宗教でした。

 

悪魔宗教は、わざとカトリックの中に入り込んで、カトリックの組織が意味不明な正義を言うように誘導していき、腐敗させていったのです。

 

そして、多くのプロテスタントの思想の人々を誘導して、カトリックを追い詰め、自分たち悪魔宗教も自由になるように、多額のお金や支援をプロテスタントにしては、平和を守っていたカトリックを崩壊させようとしたのです。

 

その1つが、科学や学問による追及でした。

 

カトリック側としては、この抗議する者が、プロテスタントなのか、それとも悪魔宗教のまわしものなのか、判断することは難しかったことでしょう。

 

正しいことを言っていても、正しいことを利用して、カトリックという平和を守っている組織を崩壊させようとする悪的なものなら否定せざる負えないからです。

 

このように、悪魔宗教は、混乱をまねき、カトリック以上のご都合主義で、自分たち悪魔宗教を解放させようと策略を企てたのです。

 

そして、フランス革命を起こさせ、裁判さえもせずに、カトリックや王族、貴族を虐殺していきました。

 

プロテスタントたちも、その残虐さに、驚きますが、悪魔宗教に誘導されているものたちは止まりません。今までの恨みを晴らすかのように、虐殺を繰り返し始めたのです。

 

その後、なんとか、ナポレオンなどを制圧し、収めたのですが、悪魔宗教は、プロテスタントの裏に隠れて、自由を得て、巨額の利益を生み出しては、世の中を「科学や学問」という基準の価値観へと変えていくのです。

 

聖書を消して、科学や学問、自然の法則などに人々の目を眩ませていき、宗教は、学問や科学とは別だと歪曲した思想を広げ続けて現在に至るのです。

 

しかし、実際は、聖書は、科学や学問と一致し、聖書の基準で、平和を維持してきたのです。

 

今現在の発展や科学は、神を信じる科学者や学者によって作り出されてきたのです。

 

1、聖書を基準にする

2、現実の法則を基準にする

 

この両方、どちらが欠けても、世の中は、乱れるのです。

 

カトリックは、1は大切にしましたが、2をおろそかにして、聖書を利用して、悲劇を生みました。

悪魔宗教は、2は大切にして広げましたが、1をないがしろにして、科学や学問を利用して、人々の脳を汚染し続けているのです。

 

正しい聖書解釈をするのなら、これらの勢力の色眼鏡に誘導されてはいけません。

 

進化論というまるで科学や学問かのようなものも、本当の科学や学問の目でみれば、大嘘だということが解ります。これほど非論理的な宗教はありません。捏造や嘘、あらゆる詐欺で塗り固められた宗教です。

 

その宗教の色眼鏡で聖書を読んでも、理解できるはずがないのです。

 

 

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