歴史

イエスキリストはユダヤ教徒だったのに、なぜキリスト教が設立されたのか

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聖書をあまり読んだことがない人は、イエスキリストがユダヤ教徒だったということを知ると、どうして、キリスト教は誕生したのだろうと疑問に思う人がいます。

 

確かにイエスキリストは、ユダヤ教徒でした。ユダヤ人が大切にしていた旧約聖書をイエスキリストは大切にして、弟子たちと共に、旅を続けたのです。

イエス様が語られたことは、すべて旧約聖書に書かれていることと一致して話をしています。

では、なぜキリスト教は誕生したのでしょうか。

1、ユダヤ教は他の宗教とは圧倒的に違う

聖書の宗教と他の宗教の大きな違いと言えば、何か分るでしょうか。

 

それは、預言というものが存在していることです。

 

例えば、仏教などは、もともと釈迦が学者タイプで、宗教を否定するような教え、否定しているわけではないのですが、宗教の危険性を教えたようなものが、釈迦の教えでした。いわゆる釈迦は、宗教を利用した悪意ある組織、カルト宗教の危険性を訴えた人物だったので、学問的な考え方で、人々の脳の錯覚を取り除こうとした人物でした。

 

ですから、釈迦が残した話はとても実用的で、シンプル、そして明快です。偶像を否定し、呪文も否定し、墓も否定し、輪廻転生も否定しました。自分の像を造ろうとした信者にその行為をやめさせるという話もあります。現在、日本で広がっている大乗仏教とは真逆の教えをしていたのが、釈迦という人物で、釈迦の教える内容はとても聖書的でした。

なぜ真逆のような宗教になってしまっているのだろうかと疑問に思うかもしれませんが、のちの弟子たちが、さまざまな思想を作り出して、中国に渡った時には、釈迦は女性にされて、女神のような像になってしまっているのです。

 

中国では今でも、色々なアイディアを盗んでは、それを独自の解釈で、ぐちゃぐちゃに利用していきます。ドラえもんの紛い物があったり、ガンダムの紛い物があったり、外にあった思想を勝手に利用して、ぐちゃぐちゃにしていくのですね。ちなみに、このぐちゃぐちゃになった大乗仏教のぐちゃぐちゃな中から書かれた書物をオウム真理教の麻原彰晃は利用して、人々を騙し続けたのです。

 

それは麻原彰晃だけのことではなく、日本では、大乗仏教にいつの時代も騙され続けて、悲劇が生まれていきました。織田信長は、空想の世界に入り込む教えをするこのような大乗仏教とよくいざこざを起こしていました。江戸幕府もそうでしたが、政教分離という宗教と政治を分離して、世をまわそうとしたのは、このようなカルト思想、空想から思い込ませるような思想を排除しようとしたのですね。

 

釈迦をしたことを力も利用して、実現しようとしたのが、織田信長や徳川家康だったわけです。

 

このように、釈迦も織田信長も、現実的な論理を基にして、教えを広げようとして来ました。

 

いまでこそ、聖書が世界中の基準になり、世界中の国々に憲法が存在するようになったので、大量のカルト宗教は消え去ったのですが、憲法が世界の基準になるまでは、さまざまな正義や愛が存在していたのです。

 

多くの宗教は、その宗教によって利益を得ている者たちの都合によって、右にも左にも、変えられるものです。

 

人が、宗教や神の上に立って、人の都合によって、多くの宗教や神を作り出しています。

 

釈迦や織田信長は、そこまでひどくはありませんが、人を基準にして、物事の善悪を判定しています。人が幸せになれるように、政治にはカルト宗教をいれない政教分離を唱えようとしたなど、人を基準にした考え方ですね。

 

ですが、一神教は、これとはまったく違う思想なのです。そして、ユダヤ教もそうなのです。

 

人の下に、神や宗教を作り出すのではなく、人の上に、すでに神や神の造られた法則にしたがった宗教があると考えているのです。

 

 

ユダヤ教を作り出したイスラエル人も、今の日本や多くの世界中の宗教のように、「人間を基準にした」宗教や神々を作り広がっていました。

モーセという存在は、一神教で、ダビデ王までは、その一神教の教えが続いていたのですが、その後の子孫から他国との貿易などの政治的な都合の下に、宗教や神を置くようになり、紀元前6・7世紀までは、イスラエル人の多くは多神教を信じるようになってしまっていたのです。

 

一神教だと、他国の宗教や文化を認めることが簡単ではありません。ですが、多神教だと新しいアイディアや文化や貿易を簡単に通過させて、一見、楽に貿易や政治をまわすことができるようになるので、都合のいいグローバル化を推し進めていったのです。

 

人の都合の下に、宗教や神を置いて、利用する思想へとシフトされていたのですね。

 

ですが、これらは、最初こそ楽に色々な文化や考え方を取り入れられますが、悪いものまで、簡単に通過させると、イスラエル人たちの国は、腐敗し、悪魔的で、私利私欲に走るようになると、他国から攻撃されるようになるのです。

 

グローバル化を進めていたイスラエル人たちは、ナショナリズムを失い、愛や正義も適当なご都合主義に成り下がっていたので、腐敗し、結局、自分たちで、国を崩壊させてしまったようなものでした。

 

バビロンなどは、イスラエル人を奴隷にして、激しい弾圧を加えるようになるのです。

 

人々は、どうして、自分たちは、このような状況になってしまったのかを追及するようになります。そこで、ナショナリズム、イスラエル人の根幹が失われているということに深く気づき、そもそも、イスラエル人の根幹とは何なのかということで、多くのイスラエル人の書簡を調べていくと、聖書(旧約聖書)にいきつくのです。

 

イスラエル人は、エジプトから脱出させたモーセから、ナショナリズム(民族主義・民族の根幹)を作り出してきた民族だと再度改めるのです。

多神教ではなく、一神教のモーセの思想です。

 

そして、何よりも彼らを驚かせたのは、ナショナリズムを復古させて、激しい弾圧にも耐えられる強い思想を呼び戻そうとしていたのですが、それ以上のものを発見してしまうのです。

 

それは、モーセやモーセと同じ一神教の書物(旧約聖書)に、バビロンなど周辺諸国からイスラエル人は、ナショナリズムを見失ったゆえに、迫害され、弾圧されることが、書かれていたのです。

 

自分たちが今、苦しんでいることは、すでにモーセの時代から預言されていたという、驚くべき事実を知るようになるのです。

 

そこで、イスラエル人たちは、ハッキリと理解したのです。未来を的確に言い表し、イスラエル人にナショナリズムが消え去った後、迫害されるとまで言い切ったこの書物(旧約聖書)に書かれている神が、本物の神だということを明確に理解したのです。

 

その時代は、人の下に宗教や神を置いていたのに、それらの事実によって、本当の神が証明され、彼らイスラエル人たちは、人の上に神や宗教があると、認め始めたのです。

 

こうして、人の上に存在され、世界を創られた神を中心にしたナショナリズムをユダヤ教として、設立させたのです。

 

それからイスラエル人の中に、イスラエル人の根本であるナショナリズムを復古させて、確信を持った人々をユダヤ人と呼ぶようになったのです。

 

ユダ族の一神教のナショナリズムを持った人間はユダヤ人と言われるようになったわけです。

 

ナショナリズムを心に深く刻みつけたユダヤ人たちは、多神教を続けるイスラエル人とは違い、旧約聖書を基に、自分たちの脳を洗い流していくようになります。

 

人が教えを作るのではなく、聖書の教えが人の脳を作るようにしていったのです。

 

ですから、旧約聖書は、一切手出ししてはいけないものとして、大切にされていくのです。

 

それを変えてしまえば、人の脳を根本からずれた存在へと作り出していってしまうからです。

 

わざわざ、ご都合主義を捨てて、固定した書物を持つことをしはじめたのです。

 

他の宗教とまったく違うのは、ここです。

 

他の宗教は、時代や場所、政治や立ち位置によって、その時代の支配者の都合のいい書物や思想を植え付けていくのですが、ユダヤ教はいつの時代でも、どの場所にいっても、どの立ち位置に立っても、固定された旧約聖書が存在しているので、変えられないのです。

 

支配者が、旧約聖書に沿わないことをしたら、支配者さえも裁かれてしまうという現在の「憲法」異常のものを持ち合わせてしまっていたのです。

 

支配者、宗教権力者などの都合によって、教えから脳を作るのではないのです。昔から固定され守られ続けてきた変わらない旧約聖書を基準にしているから、ユダヤ教は、正当性があるのですね。

 

どこかの王が何を言ったとしても、そこに聖書という歴史的な固定された書物がなければ、何の意味もなくなるのです。その王様の都合のいい解釈を刷り込んでいるにすぎないからです。

 

このように、ユダヤ人は、旧約聖書を大切にして、自分たちの未来を言い当てた、旧約聖書をおそれ、そして、従ってナショナリズムを作り出していったのです。

 

人ではなく、旧約聖書の下に、自分たちを置いて、その旧約聖書の教えを人の脳にインプットしていくので、安全なわけです。

 

人の下に、自分たちを置いて、その人の都合のいい情報で、人の脳にインプットしていくのは、非常に危険ですが、旧約聖書は固定されているので、安全になるのです。

 

無神論者たちの正義や愛は、後者(人の下に自分たちを置いている)なので、とても危険だということです。

 

オウムは、大乗仏教の固定された書物を人々の脳にインプットしていきましたが、これとはまったく違います。なぜなら、その大乗仏教がそもそもご都合主義で、釈迦の教えと真逆になり、根本がないすでにご都合主義の中から生まれた書物を麻原彰晃は使っていたので、なんとでも、自分たちの都合のいい思想を持ち出して、利用すればいいのです。

 

多神教の恐ろしいところはそこで、支配者の都合のいい神々を見つけ出して、それを人々の脳にインプットさせていけばいいわけです。ですが、一神教はそれを自分たちで消しているのです。1つの神様なので、ご都合主義が極端に激減するのです。大乗仏教の宗派が異常に多いのもそのためです。

 

ユダヤ教は、ご都合主義とはまったく違うということです。

 

釈迦は、なぜ、旧約聖書のように固定された書物を残さなかったのでしょうか。釈迦はわざと教えを文字で残さなかったのです。

それは、釈迦は学者であって、どこまでも論理的な人だったので、自分はただの人間であると理解していました。旧約聖書のように、人の人智を超えたものには、手が届かないことを理解していたのです。人には、絶対に固定できる書物など書けないのです。なぜなら、人は、未来を知ることができないからです。

その時代は、固定できる教えを書き残せても、次の時代には、簡単にひっくりかえされてしまうのです。

 

旧約聖書の恐ろしいところは、そこで、いつの時代になっても、聖書は固定されているのに、なぜか未来で発見された新事実と一致してしまっているのです。

進化論という嘘の科学や学問のようなご都合主義の宗教とはまったく違いますが、事実に基づけば、聖書は現実と一致してしまっているのです。

そんな書物は、人間には絶対に書けません。

 

釈迦もそれを理解していたことでしょう。

 

進化論の正体。嘘と真実>>

 

聖書の神様こそ、真の神様なのです。

 

ユダヤ人たちもそれを理解したので、それを理解した人たちをユダヤ人と呼ぶようになったのです。

 

そして、その旧約聖書には、まだ実現されていない預言が沢山ありました。

 

その中でも、ダビデ王のように強く、世界を救う王様が誕生するという預言が書かれていて、旧約聖書と神様を心から信じる熱心なユダヤ人たちは、その救世主である王様を待ち望み続けるのです。

 

ユダヤ人の信じる旧約聖書は、固定され、だれも手出しができないようにされていましたが、イエス様が誕生するまで600年近くも時代が進むので、またナショナリズムを無くしたユダヤ人もいれば、それを守り続けているユダヤ人たちもいました。

 

ナショナリズムを無くしたユダヤ人の中には、ギリシャ神学者とともに、ギリシャ神話と融合させようとした聖書を作り出そうとしたり、人の手で、聖書のようなものを作り出そうともしはじめると、やはりユダヤ人は、かつてのイスラエル人のように、ご都合主義に走り、腐敗していくようになるのです。

 

 

そのような混沌とした時代に生まれがのが、イエスキリストでした。

 

 

2、イエスキリストは、生粋のユダヤ教徒だった

イエスキリストの時代のイスラエルの国の王は、ダビデ王の血筋ではないヘロデ王という王様になっているほど、またご都合主義の国へと腐敗していました。

ですが、ユダヤ教の熱心な信仰心も残っていて、ユダヤ教・王族・ローマ帝国などの対立は、微妙な按排(あんばい)で、成り立っていたのです。

 

人も、ナショナリズムも、王族も国も、不安定になっていたということです。

 

そこにまたローマ帝国が入り込んでいるので、さらに混乱した時代なのですね。

 

ユダヤ人の中には、またナショナリズムを取り戻そうとするユダヤ教徒がいたり、さまざまな思想がありながらも、ユダヤ教が国の根底や価値観を作り出していたのです。

 

そのユダヤ人たちの解釈と違う解釈をするものたちは、石(大きな石)をぶつけられて殺されることもありました。

 

そこに、イエスキリストが生まれたのです。

 

イエス様は、そのように横にずれて、腐敗していたユダヤ教ではなく、旧約聖書そのもの、ギリシャ神話をいれていない旧約聖書そのものの教えをそのまま、人々に教えていたのです。

 

いわゆる、モーセの信じたイスラエル人の根幹であるナショナリズム、真の神を信じ、その神様が残された旧約聖書をそのまま信じて教えられていったのです。

 

その時代のユダヤ教徒の神の存在、イメージは、唯一絶対の神でした。この世界そのものであり、自然や世界そのものは、神様の体であり、人間は、その神様の体の中に住んで守られていると考え、自然を大切にしながら、文化を育んでいたのですが、イエスキリストは、自分が神かのようなニュアンスの教えをはじめたので、ユダヤ教徒たちは、異端者だとみるようになるのです。

 

ですが、旧約聖書の創世記などを読めば解りますが、神は、自分の似姿に似せて、アダムを御作りになったのです。神様は、人間のような体があり、その神様は、世界である神様と霊の神様とつながって、三位一体の神様であることが分かるのですが、ユダヤ教徒は、その解釈を認めようとはしないのです。

 

旧約聖書は、固定されていても、旧約聖書は、まだ未来の預言を書き残したままなので、旧約聖書は、まだ途中経過にしかすぎないので、あらゆる旧約聖書の解釈が議論されていました。

 

その中で有力だったのが、ダビデ王のように強い王様の存在でした。ローマ帝国にも打ち勝ち、世界を支配してくれる力強い救世主のような王様の預言が信じられていたのです。

 

ですが、イエス様はそのような小さな救世主ではなかったのです。

 

王様は、その時代にしか世界を支配できません。しかし、イエス様は、過去・現在・未来のすべてにおいて、永遠に解放者であり、救世主である偉大なことを成し遂げるのです。

 

旧約聖書には、救世主の預言が300カ所以上に渡って存在しているのですが、イエス様はそれらすべてを成就され、実行に移されたのです。

 

イエスキリストの預言>>

 

人や政治、まわりの権力者や宗教、親や母親も関係なく、惑わされず旧約聖書通りに、イエス様は、人生を歩まれました。

まさに、旧約聖書そのものであり、本物のユダヤ教徒であり、ユダヤ人、ナショナリストだったのが、イエス様だったのです。

 

ですが、腐敗し、ローマ帝国や政治、あらゆる悪に影響されて揺れ動いていた当時のユダヤ教徒といわれる人たちは、旧約聖書を素直に解釈できず、イエスキリストの言っている意味を理解できなかったのです。

 

サングラスをかけている人は、どれだけ神経を集中しても、世の中が黒くみえてしまうように、脳が腐敗していれば、どれだけ正しいことを言っている人の言葉や姿や行動をみても、その人を黒い存在だと思い込んでしまうのですね。

 

まわりの人間は、弟子さえも、あらゆる色眼鏡で、イエスキリストを自分のみたい色でみては、その色に誘導しようとしてくるのですが、イエス様はそれらを無視するかのように、ただ旅を続け、優しさと愛を語って歩かれたのです。

 

平和や愛、ゆるしを解き続け、まったく政治やローマ帝国などの言及などもされなかったのです。

 

処刑できるような題材をイエスキリストからは見いだせなかったので、無理やり腐敗してしまっていたユダヤ教徒たちは、イエスキリストを悪人だとして、十字架刑に架けようとしてきたのですが、イエス様は、不思議とまるで子羊が首輪をかけられて歩かされるように、何もいわず黙って十字架刑を受けようとするのです。

 

ロマ提督ピラトは、何とかイエスキリストを処刑しないように動くのですが、ユダヤ教徒たちは、暴徒化していて、止められませんでした。

 

ピラトの仕事は、ローマ帝国に所属するユダヤ人たちの支配で、宗教なども自由を与えていて、ユダヤ人のナショナリズムを阻害して、暴徒となられては、ピラトの仕事は成り立たなくなってしまうので、イエスキリストを十字架刑にするしかなかったのです。

 

イエスキリストひとりのために、ローマ帝国への反乱を起こされてはいけなかったわけです。

 

そして、当人のイエスキリストも、何も言わず、むしろ十字架刑を望むかのような態度を取るので、ユダヤ教徒たちに明け渡すしかできなかったのですね。

 

平和主義を語って歩いて旅をしただけのイエスキリストは、十字架刑にかけられたのです。

 

しかし、それこそが、また世界を変える大きな出来事となっていくのです。

3、キリスト教は、弟子たちが作ったのか

キリスト教を作ったのは、ユダヤ教徒であったイエスキリストではなく、死後に残った弟子たちが、勝手にキリスト教を作ったのだと主張する人たちがいます。

 

これは本当のことなのでしょうか。

 

そうであるのなら、おかしな点がいくつも出てきます。

 

イエスキリストは、天に昇られ体はもう皆とは一緒にいないのですから、教会という建物、物質を建てたのは、確かに弟子たちでしょう。

その建物をキリスト教というのなら、弟子たちが作ったと言えるでしょう。

 

ですが、教会とは、建物のことではありません。

 

真の神様というナショナリズムであり、根幹を教える宗教のことです。

 

 

仏教は、釈迦とは真逆の教えを広げて腐敗していきましたが、原始キリスト教はまったくそれらの弟子とは違いました。

 

なぜそんなことが言えるんだ?と言う人もいるでしょう。

 

ですが、それは事実なのです。

 

釈迦の弟子とイエスキリストの弟子の状況は、真逆でした。

 

釈迦は、論理的で、学者タイプだったので、宗教的なことは肯定的な発言をしなかったのです。人智を超えたものは考えてもわからないという立場を貫いていました。

 

なので、バラモンや多くの宗教から釈迦は弾圧されていたのです。

釈迦の死後、弟子たちも、もちろん弾圧されたのですが、大乗仏教は、その弾圧から逃れるように、仏教を宗教色の濃いものへと変えていったのです。弾圧に負けた弟子、それが、釈迦の弟子だったのです。もちろん、弾圧に負けずに、頑張った上座部仏教の人たちもいました。

 

では、原始キリスト教は、どうだったでしょうか。

原始キリスト教徒たちは、もの凄い迫害にあっていました。正しいことを言ったとしても、ユダヤ教徒に石を投げられ殺された人もいます。

ユダヤ教徒だけではなく、ローマ帝国の統治を邪魔する原始キリスト教は、いざこざを起こすものとして、ローマ帝国からも迫害され、捕まえられては、ライオンに食べさせられたことさえもあったのです。

 

原始キリスト教は、イエスキリストの教えを歪曲せずに、上座部仏教のようにナショナリズムを貫いたからこそ、ユダヤ教徒からも、ローマ帝国からも激しい弾圧を受けたのです。

 

では、ここで考えていきましょう。

 

あなたが、もし、イエスキリストというユダヤ教徒を利用して、新しい宗教をあなたの都合のいい考え方で、立ち上げようと思ったとします。

 

あなたなら、どのような宗教を作りますか?

①ユダヤ教の言う内容に近づけて、迫害されないような宗教を作る。

②ユダヤ教の主張をきかずに、ローマ帝国からも迫害されても、事物の都合のいい宗教を作る

 

あなたが、もし、都合のいいあなたの宗教をその時、作るとしたら、どちらを選びますか?

 

バカな人なら、②で都合のいい宗教を造ろうとするでしょう。

 

狡猾でちょっと賢い人なら、釈迦の弟子、大乗仏教を作っていった弟子たちのように、ユダヤ教の顔をうかがった都合のいい宗教を作るでしょう。

 

実際は、原始キリスト教は、どちらを選びましたか?

 

そうです。バカの方を選んだのです。

 

わざわざ迫害され、言い続ければ言い続けるほど、命を狙われるのに、②を選び続け、実行していったのです。

なぜでしょうか?

 

彼はご都合主義の宗教を造ろうとしたら、②は、バカでしかありません。自分から死にに行っているようなものです。

 

しかし、彼は、自分たちの都合のいい宗教を造ろうとしていなかったとしたら、どうでしょうか?

 

もうそこには、体としていない、イエスキリストが、教えた通り、そのままを守って、仏教の上座部仏教の弟子たちのように、ご都合主義の真逆、ナショナリズムを貫き通していたとしたら、②はバカではなく、人智を超えた本当の信仰心だということです。

 

迫害されるほうを選び続けたからこそ、彼らは本当に、イエスキリストの教えをそのまま伝えていたという証明になっているのです。

 

殺人事件を起こした犯人が、わざわざ自分を犯人だとみせるための確実な証拠を素直に提示するでしょうか?

 

犯人ではなかったから、原始キリスト教徒は、真実を言い続け、迫害される現実があっても、真実を伝え続けたのです。

 

では、キリスト教の思想を作ったのは、誰でしょうか?

 

それでも、イエスキリストではなく、弟子だというのでしょうか?

 

もし、弟子なら、本当のバカです。

 

師匠であるイエスキリストの教え、ナショナリズムを貫いたからこそ、彼らは迫害されたのですね。

 

 

明治維新へと大きく貢献した若者たちは、吉田松陰の教えを受けていたものが多くいました。

若者たちは、命をかえりみずに、吉田松陰の意思を受け継いで、いのちを捨てるようなバカなことを続け、明治維新のきっかけとなっていったのです。

吉田松陰は、松下村塾を作り、そこで若者たちに、新しいパラダイム、思想を脳に植え付けていきました。

 

その弟子の中には、初代総理大臣伊藤博文もいたのです。

 

久坂玄瑞、高杉晋作、山縣有朋など、名だたるものたちが、のちの日本を作り上げていきました。

 

吉田松陰は、イエスキリストと似たような生涯を送っています。

イエス様のように完璧な人物ではありませんでしたが、人間臭く、真実と追及して、弾圧や差別などにまけず、誠実さと事実を基にして、多くの弟子たちを育て上げたのです。そして、最後は、イエスキリストと同じように、わざと処刑を受けて、わざと死ぬように、亡くなりました。

 

すると、師匠が、命をかけて、わざと処刑されたことを知った弟子たちは、心を入れ替えて、師匠と同じように、いのちをかけて、バカ者のように、誠実さで前に進み続けたのです。久坂玄瑞も高杉晋作も死にましたが、その吉田ニズムを最後まで貫いたのです。

 

では、彼ら幕末の立役者たちは、勝手に自分たちのご都合主義で、吉田松陰を無視し、利用したバカだったのでしょうか?

 

吉田松陰など、関係ないのでしょうか?

 

イエスキリストは、弟子たちが逃げ、多くの人々が見ている中で、十字架刑を受けきり、最後の最後まで、ナショナリズムを貫いたのです。

命よりも大切にするべきものを見せつけ、さらには、復活されたのです。イエス様が死んだときは、弟子たちは、逃げ隠れて、自分たちは弟子ではないとユダヤ教徒たちを恐れていたのに、なぜイエスキリストが死んでい亡くなった後に、突然、命を捨てるかのように、キリスト教を教えはじめたのでしょうか?

 

本当のバカだったのでしょうか。

 

イエスキリストが、本当に復活して、眼の前に現れてしまったものを目撃してしまったから、彼らは立ち上がり、死を超えていることに気づいたのです。

もし、イエス様が復活されなければ、弟子たちは、立ちあがりませんでした。生きているその時にも逃げたほどだからです。

 

そして、生き返ったイエス様は、十字架刑が旧約聖書通り、成就しおわったので、弟子たちに、神様の偉大な奥義を語りました。

そして、それらを世界中に延べ伝えなさいと説かれたのです。

 

それが「福音・グッドニュース」なのです。

 

この福音は、時代を超えて、今でも世界を変え続けています。巨大な権力だったローマ帝国を根底から変えて、一神教にし、そして、さらに巨大な権力で腐敗したカトリックもまた、根底から変え、日本にも明治維新を起こさせたのです。

 

リベラル、グローバルで、腐敗し汚れては、ナショナリズムで洗い流すという行ったり来たりを繰り返し、人間の歴史は、続いて、聖書の人権が憲法に載せられ、「人を殺してはならない」という価値観が、世界中の常識になり、人を食べるような者たちを連続殺人犯だとして、裁く権利を得たのです。

 

権力者だとしても、これに無理やり逆らい続ければ、いずれ追い込まれていきます。カトリックがそうだったようにです。

 

巨大な権力さえも変えてしまうから、中国共産党は、聖書を禁止するしかなく、世界を支配している悪魔宗教は、なんとか人々から聖書の価値観を奪わなければ、自分たちが追い込まれてしまうので、無神論というわけのわからない、非論理的なものを進化論という偽学問で、脳を汚染させていっているのです。

彼らは必至で、聖書から人々を離して、悪魔宗教のサタニズム、進化論を脳に植え付けようとしているのです。

 

悪魔宗教は、本当は、悪魔宗教ですが、表向きはキリスト教徒に変装しなければ、人々にバレるので、キリスト教を隠れ蓑にしているだけなのです。

 

無神論という低レベルな話ではなく、彼らはすべて解っていて善悪を利用して、悪を行っているのです。

 

そして、それらを見破るのは、聖書であり、それらを打ち破るのは、福音なのです。

愛や赦しが、それらを打ち破るのです。

 

キリスト教を作り教えたのは、イエスキリストです。弟子たちは、その教えを伝言ゲームのように、他の人たちに伝え続けているだけなのです。

イエスキリストの教えと行動なしでは、弟子たちは、ただ逃げて終わっていただけなのですから、彼らがキリスト教を作ったという考え方は、成り立たないのです。

 

無神論者は、ナショナリズムがありません。自分たちは偶然の産物で、無だと心から信じているので、意味がないというのが、彼らの宗教なのです。

ご都合主義であり、私利私欲、自分たちの都合にあわせて、右にいけば、左にいく、いのちをかけて、誠実な人生を歩むひとは、バカだと見えるわけです。

そんな彼らは、基準ないわけですから、あなたが、人のために荷物を持ってあげても、何とでも言うわけです。

 

「ドロボー!」とかです。あなたの意思、あなたの本当の真意を無視して、何とでも言えるのです。

 

ですが、一神教の宗教は、そうはいきません。なぜなら、昔から変わらず、固定された「聖書」という固定された基礎があるからです。

キリスト教徒は、わざわざ、自分たちを不自由にさせているということです。

 

なのに、なぜ何でも行ける無神論者の質問や誹謗中傷を的確に「答えることができるのでしょうか」

 

おかしなことですね。

 

ご都合主義で何とでも言える人なら、何とでも言えますが、聖書は固定されているから何とでも言えないのに、しっかりと応えられているのは、人智を超えている証拠なのです。

 

一神教の人と、無神論者は、同じ立ち位置ではないのに、説明出来てしまうということは、彼が正しいという証拠なのですね。

 

原始キリスト教徒は、新約聖書を書いて固定させました。なぜ、そのような危険を犯したのでしょうか。

 

固定される文章を残すということは、ユダヤ教徒やローマ帝国から、あげあしを取られて、証拠として取り上げられ、命を奪われることに使われ兼ねません。

それでも、なぜ、彼らはそれらを書いたのでしょうか。

 

それは、事実であり、真実であり、真心から聖書と一致して、神を信じていたからです。

 

さすがに、黙示録は、キリスト教がある程度認知されてからしか、書き残せませんでした。福音書のように的確に、歴史を物語るものなら書けますが、黙示録のような何を言っているのか分からないものを最初の時期に書いて、まわしていたら、そこれこそ異端だとして、弾圧されるからです。

 

ご都合主義で考えれば、原始キリスト教ほどバカな行動をしているものはなかったのです。

 

それは、本当にバカだったのか、それとも真実だからそうせざる負えなかったのか、みなさんはどちらだと思うでしょうか。

 

ルカによる福音書24章25~27節

そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた

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