思考の変化

人はなぜ神を信じるのか

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
Pocket

神を信じる人と神を信じない人に大きく現代人は、分別されていますが、世界の多くの人たちは、神を色々な形で信じています。

無神論という宗教を信じている人は、世界の人の割合からすれば圧倒的に少ないのですが、なぜ人は神をこんなにも多くの人たちが信じてしまっているのでしょうか。

 

日本は、世界でも進化論という宗教をいち早く取り入れた国で、教育の中にも、進化論という宗教をこどもたちの頭の中に入れようとしてきたので、無神論者が多い国です。ですから、環境による影響の反応では、もっと無神論が多くなってもおかしくはないのですが、多くの日本人の中にも、神を信じる人たちが人間社会の環境を無視して、存在しているのも事実です。

 

なぜこれほどまでに、人は神を信じるのでしょうか。

1、生きている存在そのもので理解している

神を信じている理由を聞くと、人それぞれです。多くの宗教があり、それら宗教の信者さんたちも、それぞれの理由で神を信じています。

ある人は、わたしの母のように、感覚的にといいますか、言葉では説明できない信仰心を持って、確信を持って信じている人もいます。そういう人の言葉を聞いても、わたしのように頭が固い人間は、非論理的に感じて否定してしまうわけですが、実は物凄く論理的なことを実践して生きているのです。

何度もサイトで言っていますが、こういう人ほど実は素晴らしいく、わたしのように理解してから話す人は、よくよく突き詰めると、矛盾して行動しているのです。

 

大いなる確信といいますか、存在そのもので、神の存在を感じ取って、世を正しい方向へと本人たちは気づいていないのですが、大きく動かしているのです。

 

神を信じる人たちの多くは、こういった人が多いのではないでしょうか。

言葉を超えたところ、論理で理解しているわけではないが、信じているのです。

 

動物を観察する研究者は、その動物の行動から真理を見出そうとします。当たり前ですが、動物は言葉を操らないので、言葉にはできないものを人間が勝手に、言葉として説明していっているわけです。

 

こういった言葉ではないものを研究して、言葉にして理解し、世に広げようとする生物学者たちは、そこに大いなる法則を見出していく人も多くいるのです。

 

進化論という宗教が脳に入り込んで、すでに脳が汚染されている生物学者は、なかなかそのマインドから抜け出すことができずに、右往左往して苦しんで生きてしまっているのですが、そういった動物の中からも神を見出す人も多くいるのです。

 

有名なところではファーブルなどですが、進化論という色眼鏡を外して、数学的、確率的に考えれば、生物そのものの存在が、すでにありえないのです。

法則があることに気づいてしまうのですね。

 

おかしなことですね。言葉を使うわけでもない生き物や世界が、すでに言葉に沿っているかのように、自然と生きてしまっていることに、気づいてしまうわけです。

 

エンジェルマップでは、色々な読者の方からコメントが送られてきます。神を信じる人やわたしと同じクリスチャンで共感して励ましの言葉を送ってくださる方から、もの凄く否定して、感情的にコメントをくださる方もいます。また、肯定でも、否定でもないコメントを下さる方と様々です。

 

そのコメントの1つに、世界に代々伝わっている文化を大切にしたいというようなご意見をしてくださる方も幾人かいて、素晴らしいご意見だと思って読ませてもらいました。

 

キリスト教という枠のような、白人の宗教のようなイメージがキリスト教が現代では認識されているのですが、世界には、ざまざな宗教があり、その国や民族、あらゆる文化が増え広がっていましたし、かなり減少したといえ、今でも多くあり、キリスト教は、その中の1つであると考えられているわけですね。

 

わたしは、生まれた時からクリスチャン家庭のこどもとして生まれたので、教会に行き続けていたのですが、心の奥底では、クリスチャンではありませんでした。神というものは、人間の心の中で、信じ込んでいるものだとずっと心から信じ込んでいたのです。

 

ですが、宗教は、それでも素晴らしいものだというのをわたしは、環境からも理解していました。教会の人たちは、とても優しく正しいことを正しく行うように生きているのを目の当たりにし続けていたからです。

 

無神論者の多くの人は、表面的な面だけをみて、正直どうでもいいことでも、楽しみ、誤魔化しているような人が多かったですが、宗教を信じている人たちは、クリスチャンに問わず、本質を見る目があることを理解していました。ですから、宗教は素晴らしいことは、知っていたのです。

 

そんなわたしは、多くの宗教を調べ研究しました。ありとあらゆる宗教の概念や信仰を言葉にした書物などを読み、やはり宗教は、素晴らしいものだと確信も増やすことができました。

 

ですが、ある時、気づいたのですね。ありとあらゆる宗教は、「似ている」と感じたのです。

 

まったく違う大陸のまったく違う民族で、まったく違う言葉から生まれた宗教も、似ていることに気づきました。

 

多くの人は、仏教や神道とキリスト教は、まったく違うと思い込んでいますが、それら3つの宗教も、実は恐ろしく似ているのです。

 

色々な宗教の書物を読んでいる中には、原住民の文化、森の中で独自に生きているような文化の宗教の民に、キリスト教を教えると、自分たちの宗教と似ていることに気づいた村長が、キリスト教になったという話があったと聞いたことがあります。

 

昔から先人に教えられてきた教えが、世界に共通した認識だったことに気づくと、様々な宗教は、実は1つだったことに気づくのです。

 

人間の特性をみても、それは理解できます。

 

血は、フランス人であっても、日本の文化だけで育てれば、その子は、日本語で物事を考えるようになるのです。

 

この事実は、わたしたちは、先人のマインドコントロールによって、自分たちの脳に情報をいれて、理解しているだけにすぎないということです。

先人もそうですが、大自然という環境からも、あらゆる外部からの情報を脳にいれているだけなのです。

 

世界中に、あらゆる小説やあらゆる歴史、あらゆる多種多様な物語が書き綴られていますが、それらにも、共通点があることに気づく人がいるのですね。

 

これらの事実を明確な言葉で説明できているのは、たった1つしかありません。

 

それは、「聖書」です。

 

あらゆる国の様々な宗教がありますが、そのほとんどは、不明瞭で、感覚的、抽象的なものばかりです。ギリシャ神話やエジプト神話にしても、神道にしても、まるで聖書の黙示録のような何を言いたいのか分からないものが多いのですが、聖書は、誤魔化しなしに、論理的に書かれているのです。

 

預言書というものは、何を言っているのか分からないように書かれてはいますが、それ以外のものは、過去起こったものを明確に書いているかのように、聖書は書かれています。

仏教もかなり明確に制つめいしていくような宗教といいますか、学問的な宗教ですが、聖書はそれらをさらに超えています。

 

そして、その聖書には、人はアダムとエバから広がったことが書かれているのです。

 

そのアダムとエバから広がった人々は、一度滅んで、ノアの家族の脳に入れられた情報にまた、集約されていきます。

 

ノアの3人の息子たちの3人の妻という脳の情報があるので、すべて集約され直したわけではありませんが、もとを辿れば、アダムとエバの情報につながるのです。

 

1つの神様、本当の神様からはじまった情報が、時を重ねていくうちに、歪曲されて、1つだったものが、複数に広がっていくことになります。

 

ですが、脳に入れられている情報の根源は、同じなので、世界中の宗教には、共通点が存在してしまっているわけです。

 

キリスト教は、さまざな宗教の1つではないということです。

 

もともと、世界のすべてが1つから始まり、その痕跡の事実が、世界中の宗教になるのですから、世界は1つだったのです。

 

同じ家族で、同じ仲間であったものが、違うと認識してしまったから、争いが起こるのであって、もともと1つであり、家族であるのなら、違うと考えるほうが、違うというわけです。

 

聖書は、人間には書けません。多くの宗教を調べれば調べるほど、そう認識できるようになるでしょう。多くは人間が作り出し、利用しようとした宗教で、そこに権威を混ぜて偉大な宗教のようにみせようとするので、説明できないような不可思議な言葉で誤魔化すしかできないのです。なぜなら、人は未来を見ることが出来ないからです。

 

その時代では、正しいと思われていたことが、次の時代に解かった新たな発見から、それらは正しくないと解ってしまうように、ハッキリと書かれている聖書は、ありえない書物だということです。

 

なのに、新たな発見で解ったことと、聖書は一致してしまっているのです。

 

わたしたちの遥か昔のことが書かれて田舎柄、わたしたちの未来に発見されるものをすでに追い越しているのです。

 

わたしは、インディアンの教会に行ったことがあるのですが、とても独特な音楽で、独特な雰囲気の教会でした。

 

日本の演歌で、キリスト教を表している教会みたいなものです。

 

わたしは、世界中の宗教や先祖から伝わった伝統や話、神話などは、証拠の1つとして、残すべきだと思います。それぞれが別々だと信じていたものが、実は1つの情報、脳のプログラムから枝分かれしたという1つの証拠になるからです。

 

神様を賛美する方法は、ピアノでも、ギターでも、琴でもいいのです。三位一体を表した三味線でもいいのです。

 

それぞれの方法で、神様を信じ、確信を持って信仰していけばいいのです。もちろん、誠実にです。

 

誠実に神を求めるのなら、結局、聖書に突き当たります。今はそれに気づけない人も多いですが、多くの広がった宗教は、徐々に縮小していっている傾向があるように、本当の科学、学問によって、言葉で表されていなかったことも、言葉によって言い表されるようになればなるほど、認めざる負えなくなっていくでしょう。

 

そして、言葉で言い表していなかった人たちが、どれほど偉大な生き方をしていたのかも、証明されていくことでしょう。

 

本人としては、何でもないことだと思い込んで、ただ実行し、信仰していることでも、そこには、奥義が潜んでいて、代々伝わって、アダムとエバから継承し続け、神様を信じているのです。

 

この世は、愛で満ちています。わたしたちが、生きているのがその証拠です。

悪人に襲われても、生きているから襲われることができるのです。すでに、祝福のうちにわたしたちは存在してしまっているのです。

神を信じているひとたちは、その愛に従い、悪をみても、善を行おうとするひとたちです。そして、愛を信じたいからこそ、神を信じている人もいるでしょう。

 

何か解らないが、この世界は、偶然ではないと感じて信じている人もいるでしょう。

 

それらは実は、存在そのもの、言葉では今は言い表せていないものをいち早く感じ取って、信仰しているわけです。悪人は、善悪を超えて、悪を行おうとしますが、神を信じるひとたちは、善悪を超えて、善を行おうとする真逆の存在です。

 

例えキリスト教徒でなくても、誠実に生きることを続けて行けば、いつかは真理に辿り着きます。わたしたちの時代では、たぶん無理だとは思いますが、誠実に、事実と向き合っていけば、少しずつ、事実を認めざる負えなくなるのです。

 

ですが、誠実さを無くして、悪を選べば、事実を無視して、言い争おうとするでしょう。学者といわれる人ほど、そうなってしまう人もいます。激しく脳の汚染させて、信じ込んでいるからです。そこに誠実さがある学者は、聞く耳がありますが、誠実さを捨てて、自分の想いに凝り固まると、昔のわたしのように、親の正しさを理解できず、苦しむことになるのですね。

 

パウロは、原始キリスト教徒を激しく迫害しました。ですが、彼はとても誠実な人で、心から正しいと思って、キリスト教徒を殺していたのです。

彼は、誠実さがある学者だったので、目からウロコが取れて、真理を見出すことができました。

パウロの回心>>

 

学者や科学者、神学者や聖職者、あらゆる宗教の人たちも、誠実な心で歩んで行ってほしいものです。犯罪者と同じ、枠すら壊して、否定するようになったら、手の施しようがなくなるからです。

 

誠実さを持って生きていれば、この世は、神がいないわけがないと認めるしかなくなります。そして、いつかは、その神とは、唯一絶対の神であり、聖書の神であって、すべての宗教のはじめのはじめに行きつくことでしょう。

全知全能の神が確実に存在するという証拠>>

人は、神を信じずには、存続できないということです。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントを残す

*

CAPTCHA