思考の変化

神様はなぜ永遠の苦しみ、地獄を創られたのか

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聖書の神様は、愛です。

 

現実をありのままに見ることが出来れば、それを否定は出来ません。

 

ですが、どうして、神様は、悪魔の子孫となってしまったにしろ、そのような人間に永遠の苦しみを与える地獄というものを用意されたのでしょうか。

永遠に苦しむなんて、本当に嫌なことですね。

 

重犯罪者と一生同じ牢獄に入れられる方が、どれほど平安な環境だと思えます。聖書には、ハデスという地獄で永遠の炎に焼かれ続けることが書かれています。

なぜこのような地獄を神様は用意されたのでしょうか。

 

悪をしていた時間だけ、ハデスという地獄で、苦しめられて、その後は、消滅して無になるというものではダメだったのでしょうか。

1、全知全能の神様は、悪を認めることはできない

全知全能の神様は、この世界、霊の世界、すべての世界においてのすべてであり、1つ1つは、神様の体の一部です。

 

どんな小さなものであっても、神様の素晴らしい法則によって、それらは存在し、形作られています。

 

それらの法則、言葉による情報を使って信じられないほど絶妙なバランスで、この世は存在しています。

 

神様にとって、悪とは、それらを壊す存在のことです。神様の体を傷つける存在、思想、あらゆる不正が、悪なのです。

 

人間の価値観の善悪のことではなく、事実を無視して、自分勝手に、歩み破壊することが、悪なのですね。

 

事実を無視して、破壊し続ければ、世界は成り立ちません。人間は、人間だけでは生きていません。地球という奇跡の星があって、はじめて生きて居られるのです。その環境があるから戦争もできれば、犯罪に襲われることもでき、狼に襲われることもできるのです。その環境なしでは、わたしたちは、存続さえできず、存在しないものは、死ぬことさえもできません。悪をすることさえ出来ないのです。

 

もし、神様が、悪を認めてしまえば、世界は、崩壊していきます。多くの者たちが苦しむというレベルではありません。

 

そもそも、神様にとって、人間は、目の上のたんこぶです。もし、人間が存在しなければ、神様は、プログラミング通りに動く、動物や植物をそのまま共生のシステムで生かしておけるからです。

 

神様の体である世界を破壊しえるのは、人間だからです。

 

神様は、意思のある存在だからこそ、この絶妙なバランスの世界を創ることが出来ています。

その意思とは違う別の意思を持った存在、天使や人間などを神様は、造られたのは、なぜでしょうか。

 

自分の意思とは違うものを造れば、それらは危険な存在になる可能性は十分あります。

親は、自分たちの子が、素晴らしい子になることを望み、愛しますが、その子が犯罪者にならないとは、言い切れません。危険な存在でもあるわけです。

 

親のいうことだけを聞く、ロボットのようなこどもがいるのなら、危険は少なくなります。その親の思った通りに、動かせるからです。

 

みなさんは、どちらが、いいでしょうか。自分の思ったとおりに100%動かせるロボットのようなこどもがいいでしょうか。それとも、自分の意思とは別の意思を持って、自分を相手してくれるこどもがいいでしょうか。

 

どちらがいいかは、その人によって違うとは思うので、分かれるところです。

 

どうでもいいことですが、わたしは、自分とは違う意思を持った人がいたほうが、危険を伴ったとしても、生きる意味を見出せるので、後者を選びます。

 

アイアムレジェンドというウィル・スミスのハリウッド映画があるのですが、自分だけが生き残り、他はまったく誰もいなくなってしまい、世界では、自分ひとりになってしまっているという映画です。

主人公は、世界中の富を好き勝手に使え、好きな車に乗って、好き勝手なことができるのです。ですが、主人公は、何をしても虚しさを感じてしまうのです。

自分の意思通りに動かない犬を彼はとても愛します。いうことを聞かないで失敗などをする犬を心から大切にして、お風呂にいれてあげたりするのです。

 

その犬のためなら、自分のいのちを危険にしても、助けにいったりもするのです。

 

自分とは、切り離された意思を持つものがいることは、もの凄くその人の意味になりえるのかもしれません。

 

神様は、アダムに動物を与えました。ですが、その動物でも、納得できなかったと創世記には書かれています。レジェンドの主人公も同じでした。

レジェンドの場合は、他人というものも理解していたので、さらに人間を恋い慕ったとという設定だとは思いますが、アダムは、自分以外には、人間は見たことが無かったので、他人を認識していたかは分かりません。イエス様という別の意思を持つ存在はいたからこそ、自分とは違う意思を持つ人間をアダムは、心の片隅で、望んでいたのかもしれません。

 

愛のために、危険をおかしてでも、望むものがあるというわけです。

 

神様もそうだったのかもしれません。ですが、神様は、人間とは違います。人間の持つ責任や危険のレベルではないからです。

 

もし、神様が、悪を認めて、人間が悪をしても、さらに祝福するような世界にすればするほど、悪は、増大していってしまうからです。

神様は、人を愛しているがゆえに、悪を認めることはできないのです。世界が崩壊したら、愛する人間は存在しえなくなるからです。

 

人間のためにも、悪を認めることはできないというわけです。

ですから、現実の世界という状況に沿った枠の中で、人間に自由意思を与えられたのです。

 

神様なら、すべての悪を選択できないようにすることも可能だったことでしょう。ですが、それはロボットを作っているのと変わりません。

ですから、この世界のルールの中で、自由意思をゆるされたのです。

 

ですが、最終的には、それら悪を完全に否定されます。

 

人間が世界で生きている間は、自由意思を尊重し、悪をしたとしても、試練や苦難を与えては、導かれ、忍耐を持って見守られます。あのカナン人でさえも、神様は400年も滅ぼすまで時間を与えたのです。

 

現在、悪魔宗教が世界を支配していますが、神様は、それをゆるされているのも、当時のカナン人ほどではない悪で、現代の悪魔宗教は、聖書の価値観や善を利用しなければ、存続できないことを理解しているからこそ、彼らに長く時間を与えているのです。

 

ですが、それは時間が限られていて、悪は、いつかは滅びます。一時、ゆるされているだけにすぎないのです。

 

そして、最後の最後には、彼らの自由意思によって、彼らは、天国にいくのか、それとも天国に行くのかが、決まるわけです。口では、神を信じると告白しても、心で策略を練っていれば、その心によって判断されるのです。

 

神様はすべてご存知だからです。

 

 

2、神様は与えられたのに、それを無視するのかはその人の自由意思

神様は、この天国のような世界を人間に与えられました。絶妙なバランスで成り立っている素晴らしい世界でわたしたちは生きていられているのです。

どれほどのプレゼントや奇跡を与え続けられていることでしょうか。

 

わたしたちが得るすべては、すでに神様が人間に与えられた世界から生み出されているのです。

 

この絶対的な神様の愛を

 

「知らない」といってはねのけることも、「感謝します」と受け入れることも、人間は、選択できます。

 

現実を認めて、感謝することもできれば、現実を認めず、否定することもできるのです。

 

どれだけ、神様が愛して、わたしたち人間に与え続けても、それを受け取るかどうかは、その人、次第なのですね。

 

神様は、危険な存在になりえる人間を造られ、実際に悪を選んでしまったものにも、救いを用意されていました。創世記の時代からずっといのちの木であるイエス様は、すべての人間の罪を背負いわたしたちの身代わりになって、罪の罰を受けられたのです。そして、死を打ち破られ、新しい体を持って蘇られました。

 

すべての罪は、イエス様が背負われて、贖ってくれたことで、消え去ったのです。

 

そのイエス様の十字架刑が起こり、世紀さえも変えて、世界を変えられました。

 

その福音は、徐々に世界に広まっていき、多くの悪が、悪だと認識されるようになり、今では憲法に「人権」が設定されて、正しさを前面に出す正義が存在し、わたしたちがその中で生まれたのです。

 

少しずつ少しずつ現実の世界も、平和へと向かい、圧倒的に戦争も減り続け、今ではアメリカ様であっても、簡単に戦争などできません。

 

悪の正義は、犯罪だと認識され、連即殺人犯などは、サイコパスという病気の一種であるかのように、勘違いされているほど、平和ボケしてしまっているほどです。

 

憲法がなかった時代の人が、人には人権があるんだと聞いたら笑ったことでしょう。

 

ですが、今はそれが常識になって、無神論者であっても、それを心で信じてしまっているほどなのです。

 

罪や悪が多い時代では、ルールが増えるものです。中国が厳しいルールを強いるのも、罪や悪を正義としているのが、支配者だけではなく、一般人にまで広く伝わっていたからです。現代の中国は、かなり聖書的な世界の善悪を基準となるようにされていますが、100年も前までは、信じられないことが行われていたのです。

そして、それが彼らの正義だったのです。

 

イエス様は、過去・現在・未来に渡って、すべての罪を背負われたことで、世界を現実的にも平和へと導き、その思想は、人々が平和ボケできるほどにまで広がっているのです。

 

これらの現実を認めず、神様の愛である救いを自分の意思で、捨て去るのなら、いくら神様が与えたいと思われても、その人の自由意思によって受け取らないことができるのです。

 

その結果が、ハデスという地獄なのですね。

 

これだけ天国のような環境を与えても、それでも呪いの言葉を吐き続ける人、悪魔側に立つものは、最後の最後にいきつくのは、その場所なのです。

 

知らないで、罪をおかしている者は、そこに入るとは言えません。

 

イエス様は、自分を殺そうとしていた人々のために祈られました。

この人たちは、何をしているのか分かっていないのです。お許しくださいと言われたのです。

 

分かっていないでしている者と分かっていてしている者は、違うということです。

 

すべて分かっていて、それでも悪側を選択するもの、心から悪を選ぶ者たちがいくところ、それが地獄です。

 

3、なぜ地獄は永遠なのか

地獄は、その人が悪をした時間と比例して、味あわせればいいのではないのかと思えるかもしれません。

ですが、そもそも、時間なんてあるのでしょうか?

 

わたしたちは、物質がある世界を認識して生きているので、時間などを認識しているだけで、時間なんてものは、ないほうが当たり前なのかもしれません。

 

神様は、「人が永遠に生きないように」と言われ、120歳ほどの人間の寿命にされました。もし、人間がエデンの園のアダムたちように、永遠に生きる存在だったら、時間なんて気にする必要は無かったのかもしれません。

朝が来て、夜が来て、植物や果物からエネルギーをもらって、排泄して、その排泄を植物や虫が食べてのサイクルが、ぐるぐるとまわり続けるだけです。

 

好きな人とその幸せな時間を過ごすだけです。

 

そんな世界など存在しないだろ!というかもしれませんが、そんな世界が無かったとは言い切れません。

 

なぜなら、恐竜という巨大な化石が存在しているからです。恐竜という巨大な化石が大量に発見されているということは、それらが死ぬまで、それらの生き物は、大きくなるための食べ物が豊富になったということです。

 

食べ物がないのに、あれだけ大きくなったとは考えられませんね。

 

今の地球環境と恐竜がいた時代の地球環境は、圧倒的に違っていたのです。

 

約4300年前、ノアの大洪水が起きたと聖書は書かれています。その大洪水の時代から環境が圧倒的に変えられたのです。

 

進化論という宗教が、言っている何億年前などという数字は、適当な数字を言っているだけです。

 

わたしの誕生日は、5月10日です。と適当な数字を言えば、人はそれを信じるわけです。嘘をつく理由を見つけられなければ、素直なこどもたちは、大人が真剣に教える宗教を信じ込んでしまうわけです。

 

人は、悪を選ばなければ、永遠にサイクルする世界で好きな人と自由に平安のうちで生きれていたかもしれないのですね。

 

悪が増大するほど、神様は、人に与えた祝福を減らして、試練を与えていき、今のような地球環境になっているのです。

 

もし、罪もなく、平和で永遠に生きて、大量の中から選んで果物を食べているだけなのなら、時間なんて必要あったのでしょうか。

 

ましてや霊の世界になれば、時間というものは、存在するのでしょうか。

 

食べることさえ必要としないかもしれない霊でしかない存在に、時間は関係してくるのでしょうか。

 

時間概念を持つわたしたちに時間がない世界を説明するとしたら、それは永遠という言葉になっているだけで、はじめから霊は、永遠のものなのかもしれないのです。

 

もともと、わたしたちは、永遠から生まれていたとしたら、その永遠の存在である霊が悪に染まっていたのなら、それを同じ場所に留めておくのは、とても危険なことです。時間があるこの世界なら悪が存続できることを未来のために許可されていたとしても、すでに永遠に存在している霊は、同じ場所には、許可できず、その悪に染まった霊の行く場所は、ただ悪のために、過酷な環境に置かれるだけということなのかもしれません。

 

天国のような環境を与えた神様の愛を彼らは自由意思で捨て去り、破壊と悪を行ってきたのだから、破壊の場所で彼らの選択のゆえに、置かれるというわけです。

 

1000年前の時代の人の価値観と現代人の価値観は、同じ日本人であっても、まったく同じようには考えられません。

 

同じ時代に生まれて生きているわたしたちにも、「ジェネレーションギャップ」という言葉があるように、世代によって価値観が違ったりするほどです。

 

では、体があるわたしたちと霊だけになるわたしたちは、同じように考えられるのでしょうか。

 

憶測の域を出ないのですが、霊の状態になった時のわたしたちは、まったく違う世界観で世界をみるようになるのではないでしょうか。

 

時間があるから、永遠の苦しみは、残酷だと感じられるが、そもそも、天国のような環境を破壊し続けて、それを選んだのだから、その望んだ環境に行ったとしても、その人の責任です。

 

わたしは、地獄にいくような人は、悪魔を心から崇拝しているようなもの、連続殺人犯と同じ価値観を持ったものだと思っています。

その中でも、「心から」悔い改めた人は、小さな天国の恩恵かもしれませんが、天国にいけると思います。

 

麻原彰晃が、最後の最後に悔い改めたのかは分かりません。彼は巨大な悪魔宗教の1つのコマにしか過ぎない人間でした。彼は利用され、悪をばら撒いたのです。ですが、神様は、彼に温情を与え、警察に掴まる結果を与えられました。彼は薬漬けにされ、本当の後ろにいたものたちの口封じをされて、処刑されたとされています。そこで、悪魔側の人間に見放されたと感じれば、彼は神様に心から悔い改めた可能性はあります。

 

麻原彰晃は、天国にいった可能性があるということです。ですが、いまだに安全で、悪を作り、麻原彰晃のようなものたちを大量生産し続けているようなものたちは、悔い改められる可能性は低いことでしょう。

 

悪魔側の勢力に見放されない限り、そこから抜け出すのは困難です。

 

日本の政治家も、著名人も、みなそれらの勢力から賄賂をもらいその恩恵で眩しい存在のようにされているのですが、本当に誠実に生きようとする芸能人などは、芸能界から見放されていきます。

 

わたしからすれば、その芸能人は、幸せだと心から思います。悪の勢力に見放されたことで、悪との縁を切るきっかけを与えられているからです。

 

「何も問題はないよ?」という顔で、平然と生きている人は、注意が必要だということですね。

 

そして、その中でも、世界の富を多くもらっているものは、本当に注意しなければいけません。それら偶像をもって安心している人は、悔い改めることが出来るとは思えないからです。

 

さらに問題は、その富のシステムの中にいて、悪魔を崇拝している人です。

 

こういった人は、地獄に行く可能性が高いことでしょう。誰が天国にいくのか、行かないのかは、神様にしか分かりませんが、悪という破壊で人を苦しめたり、悪のために善を利用する者などは、根本的に、心が悪魔化しています。

 

イエス様を裏切ったユダは、イエス様からあなたは悪魔だと言われました。

 

悪魔は悪であり、救う救わないのレベルではありません。悪魔側のどこまでのレベルの人たちが、ハデスという地獄に行ってしまうのかは、皆目見当がつきませんが、悔い改めて、神様の本当の無限のエネルギーや祝福をみなに開放するべきでしょう。

 

悪魔は救われないのか>>

 

一般の人たちは、そんな彼らの作り出した社会通念で、知らないで悪を起こしているだけかもしれないので、天国にいける可能性は、あるのではないでしょうか。

 

聖書は、どうすれば、救われると説いているのか>>

 

しかし、理解しても、悪を選び、イエス様の救いを捨てるのなら、その人の霊はどうなるのかは、わたしには分かりません。その人の自由意思が尊重されるのか、それとも、環境から温情を考慮されて、ゆるされるのか、どちらなのでしょうか。

 

霊は、永遠のものであるから、永遠の苦しみという場所が用意されてしまうのかもしれません。

 

わたしたちが、今すぐ何かの事故で亡くなったとしても、わたしたちが、生きていたという真実は、人には、忘れられても、消えません。

実際に今生きているということは、どれだけ嫌がろうと存在して、本人さえも、その真実を消すことはできないのです。

 

名探偵コナンという漫画のセリフではありませんが、真実は常に1つしかないのです。それが歪曲されて、違うように記憶されても、起こった真実は1つなのです。

 

霊には、時間がないのも、人間にはどうしようもないことなのかもしれないということです。永遠という言葉は、時間を認識している世界でのことだからです。

 

限られているほうが、実はおかしくて、本当は無限なのかもしれません。今は仮定にしかすぎませんが、未来では霊も理解できるようになるのでしょうか。

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