思考の変化

流産や中絶したこどももは、天国に行けるのか

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キリスト教の教えでは、主イエスキリストを認識して、信じれば、救われると言われています。

 

わたしも、どのようにすれば、救われるのかと質問されたら、同じように答えます。

 

ですが、主イエスキリストを認識するのは、言葉によることが多いのです。日本人がフランスに旅行にいって、頑なに日本語を使い続けても、フランスのひとたちには、通じないように、簡単なことさえも、言葉がなければ、通じないのです。

 

では、流産した子や中絶されてしまった子は、言葉は当然使えないですし、イエス様の話を聞く時間もなかったわけですから、天国には行けないのでしょうか。

 

わたしは、流産した子は、天国に行けると思っています。救われるという定義は、実は聖書は1つではないのです。

 

そうあってほしいということではなく、聖書にそう書かれているからです。

1、もう1つの救いの解釈

天国とはどういうところなのか>>

聖書には、大きくわけて、2つ救いのことについて書かれています。

 

①1つは、先ほど書いた、主イエスキリストを救い主だと信じて、自分たちの持っている罪をイエス様が身代わりとなって十字架刑で背負ってくれたことを信じることです。

 

②そして、もう1つは、主イエスキリストが、十字架刑にかけられたその瞬間、すべての罪をイエス様が十字架刑で贖われてくださったということです。

 

①は、信じなければ、救われません。

②は、例え、イエス様のことを知らなくても、その人は、アダムの子孫なので、イエス様が2000年前に身代わりになって死んでしまったその瞬間に、わたしたちの罪も消え去ったので、多くの人たちが救われるというものです。未来で生まれたわたしたちも、イエス様が生まれる前の人たちも、救われているということです。

 

もちろん、例外はあります。悪魔側の人間は、①はもちろん救われていませんし、②でも救われない可能性が高いです。イエス様を認識していなければ、その祝福は、与えられます。ですが、認識しても、その祝福を悪のために拒否すれば、その自由意思によってその人は、救われないのです。

 

なぜそのようなことが言えるのか、それは神様は、善人にも、悪人にも雨を降らされるという言葉が聖書には書かれ、実際に、悪人にも多くの祝福を神様は与え続けているからです。ですが、その祝福を認識して、わざと受け取らないということも人間はできるわけです。雨の降らない砂漠に移動すれば、雨は降らないというのと同じです。

 

今回は、流産をした子が天国に行けるのかどうかですから、もちろん、その子は、①では、救われているとは言えないかもしれませんが、②では、救われているわけですね。

 

聖書には、ハッキリと神様を信じなければ、救われないと書かれていますが、またハッキリとすべての人が救われるとも書かれているのです。

 

なぜ、2つの救いのことが、ハッキリと書かれているのでしょうか。

 

それは、天国は1つではないからです。

 

わたしたち多くの人の認識は、天国は2つあると思っているから聖書は、矛盾しているかのように思えますが、聖書は、天国は、第三まであると書かれているのです。

 

第二コリント人への手紙12章2-4節

わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた-それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。この人が-それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、わたしは知らない。神がご存じである- パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。

 

1つ目は、エデンの園でした。神様が、世界を創られた時、神様の目からして、「とても素晴らしい」とおっしゃられました。神様からみても素晴らしいという世界は、天国なのです。

 

そして、第三の天国は、わたしたちがイメージする霊的な天国のことだと思われます。

 

そして、問題は、第二の天国なのですね。

 

預言書ともいわれているイザヤ書にも書かれていますが、この肉のある世界、物体がある世界に、またエデンのような、エデンの時とは違う形の天国が新しく作られ、そこに神の子孫は、土から復活して、1000年王国という世界を利用できるようになるのです。

 

そして、このエデンの復古した天国に行ける人は、①の主イエスキリストを信じた人だけが行けると思われます。

 

キリスト教は、現実を無視するような宗教ではありません。もし、主イエスキリストを信じなくても、天国に行けると教えたら、人は悪いことをしても、天国にいけると考え、世を荒らし、破壊していきます。結局、世界は滅んで、一度も天国のような世界は訪れずに終わってしまいます。

 

小説でいったら頑張ったけれど、バッドエンドでしたと言ったような内容になってしまいます。

 

しかし、そうではなく、少しずつですが、世の中は、平和へと近づいていっています。ローマ帝国がキリスト教を受け入れる前は、民族同士での争いや犯罪、領土紛争などがつきませんでした。ですが、聖書を基準とした、脳の情報を頭にいれることによって、人々は、正しい価値観を共有することができるようになったのです。現代人は、その聖書の教え、憲法でいう人権を理解しているので、犯罪者を悪だと否定できるのも、聖書のおかげなのです。

 

イエス様の愛とゆるしが、劇的に人々から犯罪と戦争などを減らしていったのです。

 

今は、天国のような世界になるための通過点にしかすぎません。

 

今もまだ完璧な天国ではありませんが、それでも、憲法で人権をうたえるほど、平和な世の中になっているのは事実なのです。

 

ですから、多くのクリスチャンや牧師は、主イエスキリストを信じれば、救われると教えるのですね。そして、②のすべての人が救われるというものは、①をクリアしていれば、②もクリアしていることになるので、①を強調して教えているのです。

 

もし、②ばかりを強調してしまえば、この世の天国は、なかなか成就されません。それこそ、悪のストレスで流産されてしまう人も多くなることでしょう。

 

ただ、すでに流産してしまった子は、それで無になるとか、天国にいけないということではないということです。

 

例え、言葉が通じなかったとしても、それゆえに救われているのです。

 

言葉は、今の時代では、諸刃の剣です。善の情報を脳に多く入れる優れたものが、言葉であるのと同様に、逆に悪の情報を大量にいれてしまうのも、言葉だからです。

 

その世界で生まれ育ったわたしよりも、流産した子のほうが、明らかに罪をおかした数が、違います。このような子たちは、天国では、大きなものを与えられることでしょう。そして、わたしのような罪人は、天国にいけても、流産した子と比べれば、とても小さなものを与えられるだけになるでしょう。

 

イエス様は、天国にいけるものは、こどものようなものたちだと言われています。

マルコによる福音書10章13-16節

イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。

 

②の救いの場合は、イエス様を認識していなくても、イエス様の祝福、救いは、一方的に、注がれてしまい、第二の天国は分かりませんが、第三の霊的な天国には、いけると考えられます。

 

流産した子は、言葉が使えず、認識できなかったので、①の救いによるものは、出来ないはずですが、第二の天国で土から復活させられないとは言い切れません。罪をおかした数が多いわたしたちより、その流産になった子のほうが、明らかに清いからです。どのように復活するかはわかりません。流産を体験されたご両親のこどもとして、また幼い状態から復活するのかもしれません。

 

霊的な天国では、なんだか、成人した状態で皆が出会うといった内容が出回ってしますが、それは聖書に書かれていることではないので、分かりません。ですが、天国でまた再開できるでしょう。

ですから、こどもは第二の天国も、第三の天国にも行けたのに、両親はいけなかったということには、ならないようにしてほしいものです。

 

未来に起こる出来事で、正しく生きることは、わたしたち人間は、努力や修行で可能かもしれません。しかし、過去に起こした罪や過ちは、どれだけ努力しても、修行をしても、償うことはできません。贖えないのです。

ですから、過去・現在・未来のすべてのわたしたちの罪をイエス様は背負われて十字架刑に挑まれ、旧約聖書の預言どおりに成就されたのです。

その一方的な愛や祝福を受け取らないという選択をすれば、自らの自由意思のために、拒否してしまうのですね。

 

そうすれば、②の天国どころか、③の天国にも行けるのかは、わたしには分かりません。③には行けるとは思いたいですが、感情論にすぎません。

救われているという確信を持ちなさいとよく牧師先生などが言われていましたが、まさにそういうことなのだと思います。

 

わたしたちは、罪をおかし、自分に非があると認められる人は、心を痛めることができます。その過去は、この先、どのような善行をしても、変えることはできません。神様にゆだねることしか出来ないのですね。

 

そして、そのような罪を多く持ったわたしたちよりも、流産になった子のほうが、天国にいける確率は高いはずです。また、その子たちと会うためにも、救われているという確信を持ちたいですね。傲慢になれということでは、もちろんありません。

2、ご両親の心の傷

流産になった子は、世の楽しみや幸せを感じることはできませんでした。しかし、逆に、悪による苦しみや悲しみも味あわせることもなかったとも言えます。

 

現代の世の中で生きているわたしたちは、必ず悪との戦いを続けなければ生きてはいけない環境にされてしまっています。

 

心優しく正しい人ほど、心を傷つけ、自分を追い込んでしまうことでしょう。

 

そして、我が子が、流産してしまったことも、もしかすると、自分のせいだったかもしれないと思ってしまう人もいるかもしれません。

 

中絶してしまったという人は、猶更、そのことに心を痛めて生きていくことでしょう。

 

そこで、死んだ子たちは、世の悪をそれ以上味わうことはありませんが、生きているわたしたちは、悪と戦い続けなければいけません。

 

心が弱ってしまうと、変な夢をみてしまったり、追い詰められるような気がしてしまったり、ある人は悪霊のようなものを感じてしまったりする人もいると言います。

 

愛や感情のゆえに、闇に流されそうになってしまうのです。

 

流産になった子が、天国にいける可能性が高いのは、この闇に呑み込まれる可能性が低いからです。

 

本当の愛とは、人の感情や想いのことではありません。感情や胸の苦しみなどが愛だと思っていると、脳が錯覚して、悪の道へと行動してしまいやすいです。

感情的に叫んでしまったり、感情的に行動してしまったり、やりきれない想いやストレスを発散させようとしてしまい、それがまた悪を呼び込みます。

 

本当の愛とは、人の感情や想いではありません。愛とは、人の上に存在し、人が変わっても、愛は変わらないのです。そして、人は、その変わらない愛に従うことで、愛を実践するのです。

 

本当の愛とは、何なのか>>

 

流産した子への想いのために、苦しみ、もだえるほどの心を乱してしまう方もいます。そういった時期は、すべてが闇にさえ見えてしまうことでしょう。

ですが、それでも、愛や正義を自分の上に置いて、また修正して、生きて行かなければいけないのです。

 

感情論で考えれば、世の中には、答えなどありません。人の想像力は、非現実的なことさえも、心に空想することが出来るからです。

 

ですから、感情的になってしまっている場合は、なるべく、事実について考えていくべきです。感情に流されれば、どこまでも深い闇の穴に入っていってしまうからです。

 

事実とは、なぜそれほどまでに、苦しんでいるのかということです。

 

それは、流産したという事実が過去になったからです。中絶された人も同じです。

 

流産したということは、その子は、産まれていたということです。それが、事実です。

 

その子が、存在していないのに、流産はできません。中絶もできません。

 

その子は、確実にこの世に存在していたという事実があるのです。

 

神様であっても、与えていないものを奪うことはできません。あなたにいのちを与えているから、奪うことも出来るのです。すでに、人がどう考えようと、神様は、わたしたちに祝福を与え続けているということです。

 

多くの祝福をもらっているのですから、その祝福で与えられたものの中には、奪われるものも当然出てきます。悪が多い現代では、猶更、奪われることも多いことでしょう。

 

ですが、与えられているから、無くなる辛さを味わっているのです。祝福ありきなのですね。

 

この事実を無視すれば、与えられていることを忘れ、すべて奪われるなどの恐怖や感情に呑み込まれ、どこまでも落ちて知ってしまうのです。ですが、事実は、祝福なのです。与えられているほうが圧倒的に多いのです。

 

中絶や流産になってしまったことは、確かに残念なことです。ですが、生きていたという事実があるから、天国に行けるのであって、もし、生まれていなければ、無でしかありません。ご両親のように悲しんでくれる人もいなければ、誰にも認識されず、その存在は、無ではじまり、無で終わっていたのです。

 

悲しいことを感じたのなら、それが存在しているという事実なのです。

 

存在しないもののために、悲しむ人などいません。存在せず、認識もされていないのに、人は悲しむことは出来ないのです。

 

ですから、悲しいこと、苦しいことがあったら、感謝しなさいと聖書は教えてします。それが事実だからです。

 

感謝し、喜び、その子が存在したことを認めてあげましょう。そして、いつかは、天国で再開しましょう。それが第二の天国なのか、それとも第三の天国なのかは、分かりませんが、存在したことで、また出会えるのです。

 

こういう話をすると、思い込みのように考える人もいるかもしれませんが、この世界という現実が存在しているのです。この世界は、天国のように美しく、存在しているからわたしたちは、悲しみや苦しみも味わえるのです。偶然に作られているのなら、わたしたちは生きていけません。宇宙では、空気がないほうが、常識なのです。なのに、この地球は、偶然だというトンデモ論とは真逆に、奇跡の星として生まれ、そして、あなたも流産になった子も、奇跡のゆえに、存在しえたのです。

 

感情論で考えれば、闇になるかもしれませんが、事実に基づけば、感謝なのですね。

 

この世界という天国があるのに、第二の天国や第三の天国がないというほうが、現実を無視していることなのです。天国などないなどとは、言えないのですね。

3、儀式は、必要か

こういった流産や中絶した子のために、何か宗教的な儀式を望む方がいます。確かに感情論で考えれば、その想いは理解できます。

しかし、儀式があるほうがおかしい場合もあります。

 

結婚式やお葬式などの儀式は、聖書にもあるように、それに沿っていますが、流産や中絶などのように、特殊なケースに分けて存在するのは、逆に人の弱みに付け込んだ宗教の可能性があります。

お金儲けのために、宗教を利用しようというわけです。

見た目でも、その儀式が行われるのをみて、ご両親の心は、少し浮かばれるかもしれませんが、その儀式が金儲けだけのためや悪側のものから出ているのなら、流産になった子にとって逆効果になってしまうとしたら、どうでしょうか。

 

ブッタは、お墓を否定しました。多くの宗教が、お墓などを利用して、利益をむさぼっていたからです。人の心を利用して、つけこむのです。それだけではなく、脅してくる人さえもいます。このお墓を建てなければ天国にいかせられないよ!などと言うわけです。

 

子を無くしたばかりの両親にその悪と戦おうとする気力はありません。多くが従ってしまうでしょう。

 

お金を出したから天国にいけるとか、何かを買ったから天国に行けるのであれば、その何かが無かった時代は、どうなるのでしょうか。ただの宗教を悪用しようとする人たちの悪だくみだということです。特に、何百万とかのお金を要求してくるようなものは、明らかに悪意があるものなので、高額のお金だと思ったら、近寄らないほうがいいです。

 

ですから、葬式はしたとしても、特にそれ以外は、する必要はありません。神様に祈り、流産になった子と自分たちが天国にいけるようにと願えばいいのです。

そして、確信を持ちましょう。

 

何か行動すれば、脳の錯覚で、気が収まるかもしれませんが、神様という存在にゆだね、祈ることが一番の正しさだということを感情論ではなく、愛や正しさで選択してほしいです。

 

全知全能の神様が、確実にいるという証拠>>

 

キリスト教では、バプテスマという洗礼式を行います。これは、イエス様を信じる前に行った罪などとの決別の意味で行われる儀式で、水によって新しく清められるというものです。

悪で満ちてしまった世界を神様は、水で洗い流されました。そして、新しいノアの家族から人間の歴史が伝えられ、悪をすると滅びることを学んで、今でもなんとか、滅びずに、生活ができています。

 

イエス様が十字架刑に架けられた時、他にふたりの罪人が、十字架刑にかけられました。そのうちのひとりが、イエス様を死ぬ直前に、信じたのです。

すると、イエス様は、「今日あなたは、わたしとともにパラダイスにいる」と言われました。

 

彼は十字架刑に架けられるほどの大きな罪を犯してきた人で、もちろん、バプテスマという儀式を行ってはいませんでした。ですが、彼は天国にいくことが出来たのです。

 

儀式などをすると、やった気分になることはできますが、それが実際に正しいこととは言えません。秦の始皇帝は、死を恐れ、永遠のいのちを得るための方法を世界中に部下に探させました。そして、死んでも天国にいけるように、巨大なお墓を建てて、護衛として大勢の石造を大量に作らせたのです。

 

始皇帝は、誰にもできないお墓を作ったかもしれませんが、それは自己満足であって、実際は、大勢の人々を苦しめる苦役になったとしたら、天国にいける可能性を下げてしまったのではないでしょうか。支配者のお墓などを作って、ニューディール政策のように、富を世に流すための政策は、日本でも多く行われて来ましたが、秦の始皇帝は、富を与えず、苦役が多かったという学者もいるのです。もし、それが本当だったのなら、お墓を造ったことは、逆効果だったかもしれません。

 

三国志の曹操孟徳は、実を大切にする人物だったといいます。彼は世の中では悪人かのように伝えられていますが、近年では、織田信長のように、実はとても論理的で素晴らしい支配者だったかもしれないと言われ始めました。そして、曹操のお墓は、とても質素なものだったのです。

 

気を落ち込んでいる人につけこむような人もいるので、注意が必要です。心は悲しいかもしれませんが、感情論だけに流されず、そういった人たちにも気を付けましょう。

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