思考の変化

ユダヤ教は神様から罰を受けたのにどうして信じ続けるのか

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ユダヤ教は、紀元前6・7世紀に設立された宗教です。

それまでは、イスラエル人の宗教は、ユダヤ教とは呼ばれず、一神教の宗教と多神教の宗教が入り混じって存在していました。

 

もちろん、モーセの時代からアブラハムやノアの一神教の宗教が復古され、ダビデ王までは一神教が土着の宗教として存在していたのですが、エジプトにイスラエル人が400年間住んでいた時には、すでにエジプトの多神教やバール信仰がイスラエル人の中に入り込んでいたのです。

 

ソロモン王からまた、そのエジプト派、ヨセフ派と呼ばれる多神教が入り込んできて、長らくイスラエル人は、多神教に流れるようになったのです。

 

多神教へと流れていったイスラエル人の民に、起こった大きな出来事、それがバビロン捕囚でした。イスラエル人たちが住んでいたカナンの地、パレスチナは、まわりの国々に次々と攻撃を受けて、とてもひどい苦役にあわされるのです。

 

みなさんは、どうでしょうか。酷い出来事が起こった時、神様に対して、多神教でも、一神教でも、信じ続けることができるのでしょうか。

 

ユダヤ人が選んだのは、神を信じなくなるとは、真逆の一神教の神を深く熱心に信じるようになったのです。

 

このことに、学者やあらゆる人たちが、理解できないわけです。なぜこのような選択、逆に神様を信じるようになり、世界でも神を熱心に信じる宗教になったのかということです。

1、聖書の宗教は、他の宗教とは根本的に違う

昔から宗教は、世界中で広がり、それぞれの神々を信じてきたのですが、どの宗教をみても、その時代の人間や支配者層の都合のいい内容を教えていることから、人が神や宗教を利用して、神などは人間の下で使われているだけになっているわけです。多神教は突き詰めれば、神を利用する宗教になります。

 

ですが、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教などの一神教は、特別なのです。

 

「神がいるという証拠が先にあって、人は神の下で従うしかない」と考えるのが、一神教なのです。

 

世界の多神教は、卵が先か、鳥が先かが分からないところを行ったり来たりするものです。神が先か、人間が先かが行ったり来たりしているということです。

日本の神道は多神教の中でも特殊で、一見多神教のように思わされていますが、実際は神道は一神教的なので、「神が先」という認識が強く、神に従うという認識ばかりが日本人の中には広がっているので、良心などを不正よりも重要視するのです。

なぜ神道はそうなのかというと、日本人とは、本物のイスラエル人だからです。根本的に、先代からの教え、聖書の教えが文化の中に入り込んでいるので、世界でも有数の道徳観がしっかりしている民族であり、国なのです。

 

このように、一神教的な宗教は、神様が先にあるものであって、その下に人間がいるので、その時の都合によって神や事実を変えるということを望まない。歪曲させて嘘や詐欺で歴史などを変えようとするのを良しとしない傾向があるのですね。

 

日本の歴史もかなり歪曲させられていますが、世界のやり方とは違い、事実や真実、真理などありきで形成されているので、歪曲されている量も極端に少ないのです。

 

世界の多神教は、神を明らかに下にして、自分たちの都合のいい価値観を脳に植え込んでいくという手法ばかりが広がっていたので、嘘や詐欺、ありとあらゆる悪も正義だという文化があるのです。中国や韓国は、まさにそうで、大陸という過酷な環境の中に、さらにあらゆる善悪が存在し、複雑に争いあってきたので、悪が悪を生んでいくという悪のサイクルがぐるぐるとまわってしまっていたのです。

 

その悪のサイクルに入らないようにしたのが、一神教です。

鳥が先だ。ということをハッキリしている一神教だからこそ、神を人間の上にあって、事実や真理は変えられないので、それに損をしてでも、従うという宗教が存在しているのです。

 

ですが、その一神教の最初の宗教。ユダヤ教を設立したイスラエル人も、多神教を多くの者たちが信じていました。多神教と一神教が、交互に入れ替わるかのように、行ったり来たりしていたのです。

 

そして、ご都合主義の宗教が長く続きました。ダビデ王までは、一神教の神を信じていたのですが、その後は、ご都合主義、政治や経済、貿易的に都合のいい多神教を多くが信じていたのです。

 

変な宗教は、宇宙人などがいるかように教えるものがありますが、この世界は、人間があきらかに支配していることを否定する人はいません。ですから、その人間の都合を中心に考える人が多いです。多神教は、この考え方が中心にあるのです。神を中心に考えると、都合のいい世界の解釈ができないので、政治や経済、貿易などに不都合なことが出てくるのです。

 

ですから、神々という概念を沢山作ることで、都合のいい解釈で、歩もうとします。そうすると、時と場合によっては、嘘や詐欺もいいということになります。

 

この考え方は、善悪は関係なくなってしまうので、適当に物事が進んで行きます。スムーズで速いわけです。

 

ですが、基礎がない家を建てているようなもので、そこには犯罪や不正が広がり、人間への疑心暗鬼が広がると、結局、経済や政治は成り立たなくなるのです。

 

多神教のなりの果ては、滅びだということです。

 

そして、イスラエル人も滅びの一歩手前までを何度も繰り返してきたのです。

 

多神教の考え方が正しいと思って生きてきたのですが、それを覆す大きな出来事に出くわしたのです。

 

多神教ばかりになっていたイスラエル人の社会でしたが、それでも根底には、他の宗教とは違って道徳観があり、固定された価値観がありました。そして、一神教を信じる宗教も存在していたのです。

 

今の日本とまったく同じような価値観ですね。

 

大切な何かを忘れてしまい、繁栄を重視するあまり、多神教になり、ご都合主義で生きて行けば行くほど、悪が大量に世の中に生まれていく。

 

そんな基礎が壊れてしまっていたイスラエル人の国をバビロン捕囚という苦役を味わうようになったのです。

 

多神教によって根本を失っていたイスラエル人たちは、激しい苦役にあうことで、自分たちイスラエル人とは何なのかを調べ始めます。すると、イスラエル人のその根底に隠されているものを発見するのです。それが一神教でした。

 

モーセの時代に培った一神教の教え、神様からもらった律法を基準にする宗教を再度、見直したのです。

 

すると、一神教が長らく大切にしていた聖書を読んでいくと、その書物にバビロン捕囚や苦役のことをすでにモーセの時代から預言されていたことに気づくのです。

 

未来さえも的確に預言してしまう神様の存在に気づいたのです。

 

イスラエル人たちは、驚きました。神とは人間の下にあり、宗教なども人間の都合によって「利用するもの」だと考えていたのに、実はそうではなく、人間が手出しできない本物の神様が証拠を残されて、未来とイスラエル人のアイディンティティを明確に書かれていたことに衝撃を受けるのです。

 

人の考え方やどう想うというものは、関係ないことに気づいたのです。

 

イスラエル人の多くの書物から一神教の書物を発掘して、イスラエル人の存在意義を見出そうとしたのです。そうすると、モーセに行きつき、そのモーセの思想を受け継いできたユダ族がルーツであると考え、ユダヤ教という一神教の宗教を復古させたのです。

 

こうして、一神教は、また復活したのです。

 

ご都合主義の政治や文化へと流れていたのですが、そこから矯正して、正義や律法を中心としたとても熱心な宗教をイスラエル人の脳に植え付けることで、建て直していったのです。

 

一神教の預言者たちが書き残してきた書簡を集めて、聖書とし、その固定された聖書を脳にいれて、間に人を入れないことで、固定された正義という基礎を打ち立てていったのですね。

 

多神教的な人からいえば、頑固者ですが、それが事実だからしょうがないのです。人がどうこうしたから一神教だというものではなく、人が手出しできない神がその証拠を提示され、実際にそのように世の中が動いているからそれに従うしかないと認めるのです。

 

この思想は、キリスト教やイスラム教も受け継いでいるのです。

 

そして、多神教のご都合主義だった世界は、犯罪や戦争、詐欺が多発していましたが、次々と一神教になることで、それらは悪だと認識されるようになり、劇的に戦争や犯罪が減っていったのです。

 

人を殺す思想の正義も否定され、今では世界中の価値観に聖書の人権が理解されているのです。

 

「殺してはならない」という正義が固定されることで、今では刑務所というものさえも手に入れることができ、悪を裁く権利を得ているのです。

 

どこまでも落とされて、自分たちの能力の限界をみたからこそ、イスラエル人は、自分たちの曇っていた目を捨てて、事実をみることができるようになったのです。そして、ありのままの目線で、一神教の書簡やイスラエル人の文化をみることで、それらが証拠となり、それらの証拠を人間の能力では、作れないことを認めて、一神教を熱心に信じるユダヤ教が設立するという復活した歴史があるのですね。

 

多神教と一神教はどちらが正しいのか>>

進化論の正体 嘘と真実>>

2、ご都合主義の思想で、未だに一神教を捉えようとする者たち

どこまでいっても、人間を中心にして、無理やり聖書を理解しようとしても、理解できません。人間をどれだけみても、太陽がなぜ存在しているのかが分からないように、そこには、人間の介入は関係ないからです。

 

人間が関係していないものを人間が絶対に関係していて、操作しているという頭越しに考える人が、どれだけ聖書を読んだり、神学を勉強しても、どこまでいっても人中心の思想から抜け出せず、ご都合主義とでしか考えられないのです。

 

犯罪者にどれだけ、あなたのやっていることは、悪ですよと説明しても、通じないように、ご都合主義の思想、人間中心主義が脳から離れない人は、どれだけ言っても通じないのです。

 

こどものように柔軟で素直だと、当たり前のことを当たり前に言っても通じるのですが、すでに脳が汚染されている人にとって、その汚染された脳が、正義として塗り固められているので、当たり前のことが、当たり前に見えないのです。

 

牧師や神学者の中にも、このことを理解できない人たちがいます。なかなか自分の脳の汚染に気づくことができないのですね。

 

ただ、厄介なのは、その中に、解かっていて、わざとご都合主義に人々を誘導しようとする牧師や神学者がいるということです。

 

こういう人たちを聖書は、偽預言者だと忠告し、悪魔側の人間だと教えています。

なぜ神学者が聖書を冒涜するのか>>

信者さんたちの多くは、知らないで脳が汚染され、その汚染が正しいと正義感を持って信じているわけです。こういう人は、使徒パウロと同じです。

正義感を持って自分が正しいと攻撃的になっているだけです。

使徒パウロは、実は、原始キリスト教を迫害していた中心人物だったのです。彼は心から正しいと思って原始キリスト教を迫害していたのですが、目からウロコが取れる体験をすることで、使徒と呼ばれるほどになったのです。

 

こういう人に関しては神様は、裁こうとはなされません。

 

心から正義だと思うことを貫こうとする想いは、未来をつくりあげることには重要なことだからです。

 

すれ違いをしているだけで、真実を知るとそういう人は、急激に変わって、素晴らしい人物になったりするからです。

 

仏教や神道、イスラム教やあらゆる宗教や学者や科学者などにも、心から正しいことをしたいと願って生きている人がいます。こういう人たちは、真実を追求していくわけです。途中、怪しいと思って、逃げる人は偽預言者となるかもしれませんが、事実を追い求めようとする人は、いつかは本物を見出すものです。

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