思考の変化

イエスキリストは文字が書けなかったのか

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イエスキリストは文字が書けなかったのではないのかという面白い質問を目にしたのでこれに答える形で今回は記事を書こうと思います。

 

驚くことですが、現代の先進国の人であっても、文字を書くことができないという人はいます。

 

日本に住んでいると文字の読み書きができないと言う人には、ほとんど出会わないので、そんな人がいるのかと思えますが、世界の国にはそういう人がごろごろいるのです。

日本という国は、色々な問題がありますが、文字の読み書きについては世界でもトップを走って来た国でした。

江戸時代の江戸の人々は80%の人たちが、文字の読み書きが出来ていたといいます。

イギリスのロンドン市民が、25%程度だったことを考えると、どれほど驚異的だったのかが分かります。

 

なぜ、文字を教える風潮がない国が多かったのでしょうか。それは、文字を教えないことは、支配者にとって都合がいいからなのです。

文字の読み書きが出来ない人は、耳で聞くしかできません。ですから、権威ある人たち、王族・貴族・兵士や司祭などの言葉を聞いて判断するしかありません。

ですが、文字の読み書きが出来る人は、あらゆる書物を読むことが出来て、情報が手に入るのです。

 

今現在、この記事をあなたが読んでいることは、文字の読み書きが出来て、脳にその内容の情報をインプット出来るわけです。エンジェルマップでは、事実の情報をそのままダイレクトに届けることができるネットを介した媒体なので、そこには横やりは入りずらいです。世の中に流れているプロパガンダとは違う情報を多く教えているので、驚くべき内容が多いと感じられる人が多く読者がおかげさまで増えています。

なぜエンジェルマップの情報を驚くのでしょうか。

 

それは、知らないからです。

 

わたしたちは、知らないことは考えることは難しいのです。

 

わたしも同じように、驚いてきました。支配者の都合のいいプロパガンダをそのまま真に受けて信じていたからです。進化論が正しいと信じ込まされていた時期もありました。

進化論の正体。嘘と真実>>

テレビのニュースをチャンネルを変えながらみてください。なぜどの局も同じ事件ばかり流しているのでしょうか。

日本は自由な情報を与えていると錯覚させられているだけで、実際は、統括された情報だけが何度も何度も外に流され、その同じ情報を見たり聞いたりする回数が多ければ多いほど、人はその情報を真に受けてしまうのです。

 

このように、昔も今も変わらず、支配者たちの都合のいい情報だけが流されるのは、変わらないということです。それを大きく揺るがしているのが、ネットであり、今まで情報規制され、弾圧されてきた学者や著名人などもネットを利用して、世の中に情報を流しはじめたことで、目を覚ます人が増えてきています。

 

それも文字の読み書き、言葉が使えるということが出来ている恩恵なのですね。

 

すべて規制しないことが正しいと言っているわけではありません。親が子に、不適切なネット情報を規制するように、親も子を情報コントロールをしようとします。このように大切だからこそ、情報をシャットアウトすることもあるのです。

 

イエスキリストが生まれた時代は、2000年前です。

今でも、情報規制をしているのですから、2000年前と考えたら、どれほどの規制が行われていたことでしょうか。

イエス様は、文字が書けなかったのでしょうか。

1、文字が読める人は、文字が書ける

文字が読める人は、文字を書くことができます。正確に誤字脱字なく書けるかといえばそうではありませんが、文字が読める人は、書くこともできるのです。

本当にそうでしょうか。

 

例えば、日本語を聞くことができるこどもは、日本語を話せます。聞くことができる人は、話すこともできるのです。

正確に話せるのかといえば、そうではありませんが、聞くことが出来る人は、話すことも出来るのわけです。

 

親は子どもに、絵本をみせて、読み聞かせます。

こどもは、文字が読めないので、代わりに親が絵本を読んであげるのですね。

その子は、すでに日本語を聞き取ることがある程度、出来ているので、親から絵本を読んでもらっているわけです。

 

もし、まだ日本語が聞き取ることができない小さな子などでしたら、その子のレベルに合わせた絵本を親は読むことでしょう。

ニンジンとか、トマトとかが出てくるだけの絵本とかですね。

 

日本語がそこそこ聞き取れ、話すことができるようになると、レベルが上がった絵本を読み聞かせるわけです。

 

ですが、その子は、日本語を話すことや聞くことは出来ても、文字が読めません。だから親が代わりに絵本を読んでいるわけです。

 

文字が読めない子は、文字も書けないのです。

 

ですが、小学生に上がる頃には、文字を読める子が多くなってきます。文字が読める子は、文字を書くことが出来ていますね。

 

漢字は書けないかもしれない。「ぬ」を「め」と書いてしまっているかもしれません。正確に文字を書けているとは言えないかもしれませんが、文字を読むことが出来る人は、文字が書けるのです。

 

この記事を読んでいる多くの人は、フランス語が読めないことでしょう。フランス語が得意ならイタリア語でも、ドイツ語でも知らないものを連想してくれればいいのですが、自分が聞き取れない言葉は、話すこともできません。

 

逆に言葉が聞き取れる人は、話すことができます。

 

みなさんが英語が得意かは分かりませんが、知っている英語の単語は、0ではないと思います。いくつか知っている英語の単語を知っていれば、それを話すことも、聞き取ることもできます。同じような発音の単語と聞き間違えるかもしれませんが、聞き間違えるということさえも出来ないのではなく、間違えることができるほどには、英語が分かっているということです。

 

まったく英語の単語が0であれば、聞き間違えることもできないのです。

 

このように、正確ではないかもしれませんが、フランス語が聞き取ることが出来る人は、フランス語を話すことができ、フランス語を読める人は、フランス語を書けるのです。

 

この事実を踏まえて、考えてみましょう。

 

イエス様は、文字を書くことが出来なかったと思うでしょうか。

2、イエスキリストは文字を書くことができなかったのか

確かにイエス様が文字が書けなかったのでは?という質問は、とても面白い発想です。ですが、イエス様は文字が書けたことは、上の事実の内容を踏まえて考えれば、多くのひとは書けたと理解できたはずです。

 

かたくなに、「文字が書けなかった!!」と言い続けることもできますが、人間の習性、事実がそうだからしょうがないわけですね。

 

 

聖書には、このように書かれています。

 

ルカによる福音書2章43-47節

ところが、祭が終って帰るとき、少年イエスはエルサレムに居残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。そして道連れの中にいることと思いこんで、一日路を行ってしまい、それから、親族や知人の中を捜しはじめたが、見つからないので、捜しまわりながらエルサレムへ引返した。そして三日の後に、イエスが宮の中で教師たちのまん中にすわって、彼らの話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞く人々はみな、イエスの賢さやその答に驚嘆していた。

 

イエス様は、旅を続けられ、多くの旧約聖書の内容をもとにして、ユダヤ教の祭司たちなどと討論を繰り広げられました。

 

数えきれないほど、その内容は新約聖書に書かれています。

 

では、数えきれないほど、旧約聖書の内容を討論し、伝えていたイエス様は、文字が読めない人だったと思い込めるでしょうか。

 

なかなか、難しいことですね。

 

文字の読み書きもできない人が、どうやって固定されていた聖書の内容を討論できると言うのでしょうか。もし、それが本当ならそこれこそ奇跡です。

 

いやいや、それは聖書に書かれていることだから、何の証明にはなっていないよ

 

などと言うのでしょうか?

 

それは事実によって踏まえれば、反論になっていません。

 

例えば、イエスキリストが実在したことは、どんな学者も否定しません。なぜなら、イエスキリストを否定し、十字架刑にかけたユダヤ教徒さえも、イエスキリストが実在しなかったなどとは、言わなかったからです。

 

イエスキリストは実在したのか>>

 

ユダヤ教が存在しない!!などとい学者は、エセ学者ですね。

 

イエスキリストは実在したことは間違いありません。そして、十字架刑にかけられたことも、間違いないのです。

 

イエスキリストは、弾圧されたという「事実」はゆるがないものなのです。

 

では、そのイエスキリストの弟子たちは、イエス様とは違って、すべてゆるされていたとでも、思うのでしょうか。

 

そんな訳がありませんね。何の罪もしなかったイエス様さえも十字架刑にかけたほどの人たちが、弟子たちに弾圧をしなかったわけがありません。

 

 

その弾圧は激しいもので、例え正しいことをしていたとこしても、大きな石をぶつけられ殺される原始キリスト教徒もいたのです。

 

それはユダヤ教徒だけではありませんでした。ローマ帝国も激しく原始キリスト教徒を弾圧したのです。

 

なぜなら、ローマ帝国は多神教をかかげ、各国の文化や宗教の自由を容認して、無駄な争いをさけては、あらゆる諸国や民族を従属させていたので、そこに争い事を生み出す原始キリスト教は、邪魔でしかなかたからです。

 

カナンの地、パレスチナを支配しているユダヤ教徒を支援することで、ローマ帝国は、ユダヤ人たちをなだめようとしていたのです。

 

イエスキリストは、文字が書けなかったという面白い質問や発想をする方などの多くの間違いは、「現代の価値観で、歴史を観ようとする」ことです。

 

日本は、裏では、情報規制され、プロパガンダばかりが何度も繰り返しマインドコントロールするために、流されているわけですが、表向きは、自由の情報を流せるようにされています。

何をサイトで言っても、犯罪的なことでなければ、規制されることはありません。

 

ですが、世界は今でも、ネット情報を規制する国が沢山あるのです。

 

国や支配者の都合の悪い情報をネットで流すと警察のような団体に掴まってしまうという国もあるのです。

 

今でもそのような国があるのに、2000年前のカナンの地と日本が本当に同じ価値観だったと思うでしょうか。

 

 

そんなわけがありませんね。同じ日本人でも、戦争を味わった方々とわたしのように戦争を味わっていない人の戦争の重みは違うように、同じ価値観だと錯覚しているから、事実であっても、みえなくなるのです。

 

罪をおかさなかったイエス様でさえも、十字架刑にかけるという恐ろしいほどの思い込みで動いていた時代に、弟子たちは、文字で固定した新約聖書を書いていきました。

これがどれほど危険なのか理解できるでしょうか。

 

誰かに話したということぐらいなら、言い訳もききます。ですが、文字で書き残すということをすれば、もうそれは証拠となってしまいます。

これをユダヤ教徒やローマ帝国が、見逃すはずはありません。少しでも、気に入らないことが書かれていれば、それを掲げて、弾圧を激しくする口実を作り出していくわけです。現代でも、キリスト教を毛嫌いしているような人は、聖書やキリスト教の間違いを必死で見つけようとしますが、そんなレベルではなありません。キリスト教徒を殺すための証拠を見つけ出そうとする時代です。

 

固定された新約聖書を書いて残すということは、それほどのリスクがあって、危険が伴うことだということです。

キリスト教徒の信者を増やすことには貢献できますが、あまりにも危険すぎる行為だったというわけです。明らかにハイリスク・ローリターンなわけです。

あなたが賢い人なら、自分から殺されてしまうような証拠になることを書くようなことをするでしょうか。

 

ですが、原始キリスト教徒は、普通に考えれば愚かすぎる行為を行ったのです。

 

なぜ、そのような愚かな行為をしたのでしょうか?

 

それは、「事実」だったからです。イエスキリストがダビデの子孫から生まれたことも、子供時代に司祭と話をしたことも、新約聖書に書かれたことは、事実だったから、書いて固定したのです。

 

そして、事実だったので、あらゆる証言や証拠が実際に存在していたのです。

 

ルカという人は、医者でした。医者とは当時では学者のことで、事実を踏まえて証拠と照らし合わせて、論理的に証明していく者でした。あらゆる証言やあらゆる証拠に裏打ちされて、ルカの福音書は書かれていたのです。

 

他の福音書も同じでした。いのちをかけて、事実を書き残したのです。

 

新約聖書が証拠にならない?そんなことをいう学者は、エセ学者です。

 

バカではないのですから、自分から死ぬような行為を何の意味もなくするわけがないのですね。バカでもそんなことしないのではないでしょうか。

 

黙示録は意味不明な不可思議な書物です。もし、最初に、この黙示録が書かれていたとしたら、異端すぎて原始キリスト教は、消え去っていたことでしょう。

ある程度、キリスト教が認められはじめた時に黙示録は最後の最後に書き残されました。

 

ローマ市民はギリシャの影響で、論理的な哲学などが好きな人が多い人たちでした。

 

計り知れないほど、論理的な裏付けされたキリスト教は、論理的なローマ市民に受け入れられていきました。これほど論理的なものは、本当の神でしかないと理解していったのです。宗教の多くは、黙示録のように意味不明、難解なものばかりです。古事記も結局、何が言いたいのか謎だらけですね。

 

人が作り出す限界は、そこまでです。

 

なぜなら、人は未来がみえないので、確定的に書くことは、将来で間違いをさらすことになってしまう可能性があるので、書けないのです。

しかし、聖書は、もの凄く読みやすく、確定されて書かれています。もちろん、預言書というものは、理解は難しいです。

もし、預言を明確に書いてしまえば、その未来は来なくなってしまうからです。

 

聖書は、旧約聖書もそうですが、新約聖書も明確に書かれ過ぎているのです。

 

あまりにも筋が通って、世界を説明できてしまっているので、多くのローマ市民が多神教だったのにもかかわらず、信じ始めました。

認知度がローマ帝国でもひろがれば、簡単には弾圧はできなくなります。

 

認知度もない状態から固定された文字で新約聖書を書くのは、危険すぎる時代、時期だったというわけです。

 

キリスト教は、弾圧されていたからこそ、正しいことが今でも証明され続けているのです。

 

存在しないものに、本気で喧嘩をする人はいません。弾圧したという事実は、そこに弾圧する対象がいたという証拠なのです。

 

ユダヤ教は、今でもイエスキリストを認めていません。だからこそ、キリスト教は正しいと証明され続けているのです。ローマはキリスト教によってのちに恩恵がありましたが、ユダヤ教は、廃れていきました。恨みのようなものがキリスト教に対して、もんもんと伝え続けられてきたことでしょう。

ですが、だからこそ、原始キリスト教は、裏もなく弾圧され、その弾圧されていた事実が、聖書を証明しているのです。

 

そこに書かれたイエス様と司祭などによる討論の数々もまた、いのちをかけて、事実を書いたのであって、その討論を旧約聖書を毎日のように勉強していた司祭と繰り広げることが出来た人が、文字が読めなかったと本気で思い込めるでしょうか。

 

文字が読めれば、文字は書けます。日本語を聞ける人が、日本語を話さないことをすることが難しいように、文字が読めるのなら、正確ではないかもしれませんが、書くことはできるのです。

 

ゆえに、イエス様が文字の読み書きができなかったというのは、面白い質問ですが、事実ではないということですね。

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