思考の変化

イエスキリストはなぜ聖書を書かなかったのか

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キリスト教が信じる聖書は、旧約聖書と新約聖書の2つで1つの書物です。

旧約聖書は、イエスキリストが生まれる前のイスラエル人の預言者たちが聖霊に導かれ書いたものです。そして、新約聖書は、イエスキリストが十字架刑にかけられ、三日で甦り、新しい体を持って天に昇られた後、イエスキリストの弟子たちとパウロが書いたもので構成されています。

 

このようにキリスト教という名前ですが、そのキリスト教は、イエスキリストが書いた書物は、1つもないのです。

イエスキリストが実在したことは間違いありません。そして、旧約聖書の預言通りの生き方をしてきました。そのようなことは人間にはできません。まさに神様という証明をイエス様はされたのですが、どうして、イエス様はご自分で新約聖書を書かれなかったのでしょうか。

イエスキリストは実在したのか>>

イエスキリストの預言>>

なぜイエス様は、聖書を書かれなかったのか、そのことについては聖書には書かれていません。しかし、聖書の内容から憶測することができます。

みていきましょう。

1、権威が集中してしまう

旧約聖書の預言をことごとく成就してしまったイエス様は、まさに神様としか言えない存在です。聖書には、このイエス様にすべての権威があり、すべてはこのイエス様のために造られていると書かれています。

では、そのイエス様が聖書を書いてしまったとしたら、どうでしょうか。

 

きちんと聖書を読み、表向きなものに惑わされない人は、イエス様が書いた書物も、旧約聖書も、同じ神様が書かれたものなので、権威は変わらないと考えることが出来ますが、多くの人は表面をみてしまいます。

イエス様の書いた聖書を特別扱いし、その他の預言者たちによって書かれた書物は、ないがしろになっていったとしたら、イエス様の権威の証明が崩されてしまいます。

 

マタイによる福音書5章17節

わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。

 

イエス様は、旧約聖書や律法を壊すためにきたのではなく、完成されるために来たのです。

 

もし、イエス様が神様ではなく、人だったのなら、聖書を書いたかもしれません。自分がいなくなれば、自分がやろうとした意味が伝わらないのではないかと心配して、恐れて聖書を書くなどという人間らしい面をみせたかもしれません。ですが、イエス様は神様です。特に自分で聖書を書く必要はありません。

神の霊に導かれている預言者や弟子たちに書かせればいいからです。

 

旧約聖書も新約聖書も、聖書のどの書物も同じように大切なものであるというものを完成させるのなら、イエス様が聖書を書かないことが最善だということですね。どうしても、イエス様が生まれる前とイエス様が生まれた後の時代が比較されてしまうように、それをまた比較対象にさせることはないのです。

2、歴史や文化に証明されたイエスキリスト

イエス様は、イエス様自身では、ご自身を神であるという証明をすることはできませんでした。

イエス様は、旧約聖書を信じてきたユダヤ人、イスラエル人の文化や歴史が存在してこそ、救世主であると認められたのです。

 

宗教には、色々なものがありますが、呪文を唱えれば、救われるといったものから、ありとあらゆるまるで空想小説のようなアイディアが教えられていますが、突然、誰かがそんなことを言い出したからといって、何の証拠になるのでしょうか。

 

わたしが、「ラララライ」と唱えれば、天国に行けますと言ったところで、それが何の証拠になるのでしょうか。

 

霊に導かれ、スピリチュアルの世界を小難しく言い表し、人の脳を混乱させて、まったく意味のない呪文に意味があると思わせることはできても、冷静に考えられる人は、そこに意味がないと分かってしまうのです。どれだけ豪華な建物や着物を着ても、それはただの裸の王様であるのは変わりません。

 

しかし、イエス様は、旧約聖書を大切にして、旅をしている時も、旧約聖書の教えを続けました。旧約聖書が間違っているとは一言も言っていません。

そして、その旧約聖書を信じてきたイスラエル人の文化と一致していたからこそ、イエス様は、救世主であり、そのイエス様を信じることでしか救われる道がないと証明されたのです。

 

ユダヤ教以上に、イエス様は、旧約聖書を理解して、その旧約聖書の預言通りに生きられたからこそ、イエス様に権威があると証明されたのです。

あまりにも、イエス様が生まれる前から存在した、旧約聖書にイエスキリストがいすぎるので、ユダヤ教は、旧約聖書をよりも、タルムードという書物を大切にしはじめ歪んでしまったほどです。

旧約聖書は、それほど、イエスキリストを証明してしまうものなのです。

イエス様は、自分自身で、救世主であることを証明するよりも、弟子たちや過去の預言者、そして、イスラエル人の歴史や文化によって、自分が神であり、救世主であることを証明していかれたのです。

だからこそ、人には絶対にできないのです。

人には絶対に出来ないことをしてしまったので、神であるとしか言えないのです。

 

神様が、人と同じように考えると考えるほうが、おかしいことです。イエス様が聖書を書いて残したほうがいいという考え方は、人間的な発想なのですね。

イエス様は、自分の力や能力によって自分を証明したのではなく、すべての世界に通じていたから証明されたのです。

 

神様だからこそ、イエス様は、聖書を書く必要はなく、書くべきものは、その後の弟子や預言者、パウロなどにまかせれば、問題はなく、むしろそのほうが、理に叶っているのですね。

 

キリスト教の中には、十字架に偶像をのせて、イエス様らしき人物の像が描かれたり、造られていますが、聖書には、イエス様の容姿は、どこにも書かれていません。イエス様がどのような顔だったのか、まったく分からないのです。

イエス様がどのような顔だったのか分かった方がいいじゃないかという人間的な考えがあったとしても、イエス様の顔は、特に分からないほうが、世の中は平和にまわるということがあるのですね。

神様は、差別はしませんが、人は差別をするものだからです。

この方がいいじゃないかと人間的なアイディアで思うことがありますが、それには、何の権威もなく、ただの疑問です。

 

悪魔が神でもいいじゃないかといった、訳の分からないアイディアとさほど変わりません。人は想像力という能力があるだけに、現実の世界ではないものを信じ込んでしまうものなのです。進化論という空想の思想を信じ込んでしまうように、人は、どれだけでも、正しいものを批判することもできれば、正しくないものを正しいと肯定することも出来てしまうのですね。

 

進化論の正体。嘘と真実>>

だからこそ、イエス様は、旧約聖書やその他の書物に権威をそこなわないように、ご自身で聖書を書かれなかったのですね。

イエス様にとっては、ご自分の手で書こうが、預言者たちの手で書こうが関係ないのなら、旧約聖書同様に、預言者たちの手で新約聖書を完成させるほうが、神をさらに証明し、聖書全体の権威の差別化もさせないようにできるので、最善なわけですね。

 

自分のことを自分で誇るような人をみると、他人はどう思うでしょうか。わたしは、そのような人を何度かみたことがありますが、滑稽にしかみえませんでした。わたしは神だと偉そうに話しかけてきたおじさんがいましたが、そのおじさんを待っていた車の中の娘や奥さんは、幸せそうな顔をしていませんでした。「またか」みたいな顔で下を向いていました。

 

イエス様が、ご自身で福音書を書くよりも、弟子たちが書いたほうが普通ではないでしょうか。

 

すべてのものは、わたしの権威によって存在するとイエス様が書くよりも、弟子たちが、世界の法則に従ってそのように書いたほうが自然ではないでしょうか。

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