思考の変化

神様はサイコロを振るのか

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よく、神様は、サイを振らないとか、サイを振るとか言われますが、みなさんは、どう思うでしょうか。

神様なんていないと思い込む無神論者の方なら存在しないものは、サイコロを振らないとトンチのようにいったり、神様を冒涜するように、すべてのことをサイコロを振って決めているといったり、このことをしっかりと考える人は少ないでしょう。

 

こういった問題は、人がどう思う。どう考えるといったものに左右されれば、答えはでてきません。

なぜなら、人は、非現実的なものさえも、本当のことだと思い込むこともできれば、空想することもできる想像力という能力があるからです。

 

人には、背中に羽はありませんが、背中に羽が生えていると空想することもできます。

 

このような人間に答えを求めても、答えなどありません。

 

そして、神はサイを振ると考えている人は、ここで停滞しているのですね。

あくまで「人間を中心にして考える」というところにこだわりすぎて、「事実」が見えなくなってしまうのですね。

事実に基づけは、神様は、サイコロを振ることはないことが分かります。

 

偶然というもので、神様は動かれてはいないのです。

1、この世界は、素晴らしすぎる

エンジェルマップでは、くどいほど言い続けている「事実」。それは、この世界があまりにも美しすぎて、素晴らしすぎるという現実です。

全知全能の神様が確実にいる証拠>>

どれだけ人が背中に羽が生えていると思い込んでも、現実の世界は変えることはできません。遺伝子組み換えなどで変えられるとSF小説のような発想が浮かぶかもしれませんが、この世界に存在しているものは、もの凄く精密に規則正しく造られているので、人がそれに手を出そうとすると良いものを作り出そうとしたのに、逆に壊してしまうことになってしまいます。

 

特に現代は、遺伝子組み換えなど存在していません。現在いわれている遺伝子組み換えは、2000年以上前から行われてきた品種改良にしかすぎません。

 

蛍光灯のように光るうさぎなども存在しません。

 

クローンも一度も作り出したことなどないのです。

 

現在は、世界のことをほとんど何も分かっていないぐらいの学問しかなく、常識だと思っているものもただの空論、想定しているのと変わらないのです。

 

例えば、絶対に、1mの線しかひけない定規で、1mmの線をひこうとしているようなものです。

1mという物差しでしか、動かすことも描くこともできないのであれば、1mmの世界のものに手を出したどうなるでしょうか。

 

世の中は、1mm単位であると解明できれば、すぐに1mm単位で操作できるというものではないのです。

 

浮力を解明しても、すぐに空は飛べません。飛行機という実行するものがなければ、飛べないのです。

 

ですから、どれだけ人間が、空想で、背中に羽が生えていると空想しても、それは今現在では、非現実的なものなのですね。

 

人間には、まったく手出し出来ていないのに、なぜ現在の世界の生き物たちは、規則正しい形をしているのでしょう。

 

みなさんのまわりの人間の顔をみてください。なぜ皆、目が2つなのでしょうか。

 

ある人は3つ、ある人は10個とか、まるでサイコロを振るように、バラバラな作りではないのは、なぜでしょうか。

 

進化論という宗教は、偶然この世界は、存在しているのなら、どうして、現実は、スターウォーズのように化け物のような世界になってしないのでしょうか。

 

現実は、あまりにも美しい形、その種類に従って、その形になって存在しているのです。

 

突然変異などといいますが、突然変異とは、神様が与えられた設計図が壊れている状態なので、ほとんどの場合は、日常生活も苦しくなってしまうようになるもので、決して進化論がいうようなよくなるものではないのです。

 

突然変異などしていたら、世界は、壊れてしまっているということです。

 

ですが、現実は、100人いれば、ほとんど100%。こわれていない人間ばかりで、みな人間の形をして、美しい形で生活しているのです。

 

鳥も犬も猫も、猿も、それぞれの種類に従って、造られているのですね。

創世記1章24節

神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。

 

お猿さんと人間は、まったく別の生き物です。同じだと言っている人は、犬と猫が同じだと言っているようなものです。

猫と犬では子孫を残せないように、お猿さんと人間では子孫は残せないのです。

 

黒人と白人、アジア人と人間なら子孫は残せます。人間は人間という種類でしか、子孫は残せないのです。

誰が何を言おうと、現実はかわりません。

 

なぜ、この世界が、これほど美しく、鳥でさえも精密に造られ、地球という絶対にありえない奇跡で存在して生き物が守られている現実があるのに、その世界をつくられた神様が、サイコロを振る必要があるのでしょうか。

聖書は、ことごとく預言を成就してきました。ユダヤ教が設立されたのも、預言が的確すぎたからです。

本当の神様は、未来をもみすえて、すべてを造られ、すべてを守り、すべてをご理解されているのが、現実をみれば、明らかなのですね。

 

では、なぜ人は、神様がサイコロを振っているかのように思い込んでしまうのでしょうか。

2、人間はサイコロを振り続けている

神様は、サイコロを振るのか、振らないのかという議題なのに、いつまでも人間をみて、神様を利用しようと考える人がいます。

どこまでいっても、自分中心にものごとを考えるのです。

多神教と一神教は、どちらが正しいのか>>

 

神道は、もともと一神教的思想なので、特殊ですが、世界の多神教は、ご都合主義です。

本当のユダヤ人とは日本人>>

人間が神を利用して、さまざまな都合のいい神々を作ってきました。

多くの神々を造れば造るほど、自分たちの都合のいい神を持ちだして、正当性を訴えればいいわけです。

 

多神教には、愛や正義は、存在しないということです。

 

愛や正義がない人間を基準にして、語るからです。

本当の愛とは何なのか>>

 

何度も言いますが、人を基準にしたら、答えなどあるわけがありません。もし、どれだけ愛や正義を語っていても、それが人間を基準にしているのなら、犯罪者の正義や愛と変わりません。趣味趣向の違いでしかなくなるのです。

神様を信じないのであれば、人は犯罪者を裁く権利などなくなるのです。

 

基準がないからです。

 

赤色が好きだといっている人と、青色が好きだと言っているひとが、どれだけ言い合っても、答えが出ないようなものです。

 

無神論者という人は、知らないうちに、神様の法律、価値観の中で守られて生きているのですね。憲法は聖書から生まれたものです。現在、人権があるのも、聖書がなければ、存在せず、人権がなければ、基準もなく、犯罪も裁けないのです。

 

連続殺人犯は、サイコパスという病気的なものだと思い込まされていますが、そうではありません。人は、日本という環境で育てば、日本人として日本語を使うようになるように、狼に育てられれば、狼のように振舞い、言葉はしゃべれなくなるのです。

連続殺人犯がしていることを聖書の基準が世界中に広まるまでは、文化や宗教として、大勢の人間が行ってきたのです。

 

人は、天使にもなりますが、悪魔にもなる恐ろしい存在なのです。

 

なので、人を基準に考えても、無駄なのです。

 

人間の心や考え方ではなく、現実を基準にしなければ、犯罪者の正義や愛を認めることになるのですね。同性愛などもまさにそれなのです。

同性愛は禁止されるべきなのか>>

どれだけ自分が女だと思い込んでも、現実はかわりません。遺伝子組み換えをして、男を女にしたり、ホルモン注射をして男を女っぽい体にしても、現実はかわりません。体を傷つけていくだけです。

現実を無視して、その人の趣味趣向の愛や正義を優先するのなら、連続殺人犯の趣味趣向も認めなければいけなくなります。

 

そんなことをすれば、世の中破滅です。

 

組織など存続できません。

 

人の想いや考え方ではなく、現実に根付いているから人間社会は成り立つのであって、そうでなければ、崩壊するだけなのです。

だから、正しいことを人はしますし、望むのです。

 

叩かれれば痛いですし、争えば嫌な気分になるからです。

 

聖書は、偽善的なものだとキリスト教ではない無神論者は、勘違いする人がいるかもしれませんが、聖書を読むと、人間の失敗談ばかりが続きます。これでもか!というほど人間が間違ってきたことばかりが、聖書には書かれているのです。

 

なぜなら、人間には、愛や正義がないからです。愛や正義がないから嘘をつくこともできれば、悪を選ぶこともでき、現実に犯罪者という人たちが、存在しているのです。

 

そして、それらの大元、なぜ人に愛や正義がなくなったのかが、聖書には書かれています。

 

それが、エデンの園、善悪を知る木です。

 

ひとは、高性能なロボットのようなもので、脳の中に、どのようなプログラムを入れるのかで、その行動が変わります。ロボットは、善悪関係なくプログラム通りの行動をするようにです。

 

はじめの人アダムは、脳に何もプログラムがない状態で生まれ、イエスキリストによって言葉を学び、善のプログラミングをされました。

イエスキリストの創世記>>

悪というプログラムがなかったのです。

 

人が0という数字をあみ出すのが難しかったように、悪を知らない人が、悪を発明するのも難しいです。

 

その悪のプログラムを入れたのが、蛇に入り込んだ悪魔でした。悪魔は、悪をこの世に生み出した暁の巫女であり、完全なる神様に対立する悪の創始者です。

 

人は、この時、悪のプログラムが入り込んで、当たり前に行動していた善だけの存在から、悪を選ぶという存在になってしまい、そのために死ぬものとなってしまったのです。

神様は、なぜを朽ちる世界に創られたのか>>

 

善と悪の両方のプログラムを手に入れた人間は、愛や正義の常識を失ったのです。

 

唯一の神様から離れ、自分たちの都合のいい神々を作り出し、人間中心のご都合主義も増え広がっていったのです。

 

その延長線上に今の人間社会があるので、とても複雑化してしまっているのですね。

 

悪のプログラムも入り込んでいる人間の心をいくら基準にしても、答えなどあるわけがありません。

 

善を悪にすることも、悪を善にすることも出来るのです。

 

ですから、聖書は、大昔から「現実をみなさい」という教え、「偶像禁止」を教え続けてきたのです。

 

偶像という空想や思い込みを人が信じれば信じるほど、神様が造られた素晴らしい世界を破壊して、人間そのものさえも滅ぼしてしまうからです。

 

偶像とな何なのか>>

 

サイコロを振っているのは、自由意思を持った人間です。神様は、人間を自分の思い通りにコントロールしようとはされません。行き過ぎた悪をする人間や支配者は、命を取ることもありますが、悪人にも雨を降らされる愛の神様です。

テレビゲームのように、一本線のストーリーなら、人間であってもコントロールできます。ですが、全知全能の神様は、たとえ、人間に自由意思を与えても、この世が御国になるように導くことができる方なのですね。これこそ、全知全能の神です。

 

聖書を読めば分かりますが、神様は、意味のない律法などは与えません。例えば、「背中の羽を使って空を飛んではならない」など非現実的なことがらを規制したりはされないのです。そんなこと当たり前ではないかと思うかもしれませんが、世界中の宗教を見ればわかるように、そのような非現実的なものがゴロゴロしているのです。何千年も前から現実的なものを精査できていることが、凄い事なのですね。

人ができないことを聖書の神様は、律法にはされません。人は、悪ができてしまうという世界で生きているのです。そして、人は、その限りなく自由意思を行使できる自由度が高い世界であっても、善へと導かれているので、現在では、「憲法・人権」が存在しているのです。

 

人は、悪を選択することができますが、悪をすればするほど、いつの間にか追い詰められていきます。アダムたちが悪を知ると、神様は、アダムたちに試練を与えられました。天国だったエデンの園から追い出されたのです。

悲しみや苦しみは、悪いものではなく、宝物>>

試練があることを聖書はどう説明しているのか>>

これは、悪を知った人間を見捨てず、愛していたからです。悪をすれば、その悪のために、苦しむようになる試練や苦難というプレゼントを与えられたのです。

 

このように、神様は、人が「人権」を手に入れるように導かれ、今では、連続殺人犯の愛や正義をするものは、牢屋にいれられる正義が固定されているのですね。

人権がなかった時代に、人権を語ったひとたちは、バカにされました。そんなものあるわけがないと言われたのです。ですが、現代では、その人権は、世界中の当たり前になっています。人間を基準にすれば、人権があることなど、おかしなことなのですね。

 

権力がある支配者の都合のいい社会になっていないのが、その証拠です。もちろん、まだまだ本当の人権は、手に入ってはいません。まだ途中経過にしかすぎません。人権は、表向きで、日本は、韓国よりも法治国家ではありません。

愛や正義も、表向きでしかないのですが、じわじわと愛と正義が、悪を追い詰めているのです。

 

このように、神様は、サイコロを振りません。人が神様がサイを振っているようにみえているだけで、1000年単位でみれば、神様は、計画通りに、救世主であるイエスキリストを現わされ、イエス様によって世界は、急激に回復され続けているのです。

3歩進んでは、2歩戻るを繰り返しながら、1歩ずつ進んでいるのですね。

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