聖書

ヨシュアとはどのような人物なのか

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ヨシュアとは、モーセの後継者で、モーセが寿命で亡くなった後、イスラエル人を聖書の神の基で導いた指導者のひとりであり、預言者です。

このヨシュアの時代は、激動の時代でした。

 

モーセの時代も激動ではありましたが、モーセは戦争などをしたわけではありません。戦いというよりは、イスラエル人の解放に力を注ぎました。

今でこそ、エジプトは滅んで、アラブ人系がエジプトに住んでいますが、神様は、エジプトを滅ぼすことはされませんでした。エジプトはそこまでの悪ではなかったということです。

ですが、ヨシュアの時代は、カナンの地に住んでいたカナン人との戦いでした。悪を正義とした価値観との戦いをした指導者。それがヨシュアでした。

このヨシュアとはどのような人物だったのでしょうか。

1、洗練された人物ヨシュア

聖書にはめずらしく非の打ち所がない人物のひとりとしてあげられるのが、ヨシュアという人物です。

聖書の7割は、人の悪による失敗談が書かれていると言われますが、あの神様に忠実だったダビデ王の悪も聖書は書いています。

ダビデ王は、人妻を好きになってしまいその女性の夫をわざと戦争の激しいところに就かせて、亡き者にしたあと彼女を手に入れました。

神様はこの悪をゆるされず、のちにダビデの子孫は、過酷な運命をたどっていきます。

 

モーセも、エジプト人のいのちを奪ってしまいました。モーセは口下手で、上手に話すことができない人物だったので、兄のアーロンが、代わりになったと聖書には書かれています。アダムの失敗など、良い事へと導くために、あらゆる悪の出来事を隠さずに書かれています。

その聖書のために、ユダヤ人も迫害されてしまったというほど、普通の宗教なら自分たちが優位になるために宗教を利用するのですが、一神教に至っては、自分たちが一見、損をしているように見えるほど、自分たちの悪をさらけ出しているのです。

 

その中でも、数少ない正しい人間のひとりとしてあげられる人物は、ヨシュアでした。

ヨシュアの生きた時代は、激動の時代。カナンの地の戦国時代だとでもいえる時代の指導者なのに、正しい選択を貫いた人だったのです。

 

聖書は、何千年も前の時代のことが書かれているのですが、現代人が聖書を読むと、今現代の価値観のまま聖書を読んでしまう人が多いです。

そうすると、意味が分からなくなります。

 

ヨシュアは、残酷な人間のようにみえてしまう人がいるということです。

 

神様は、カナン人を絶滅させることをヨシュアに命じます。そして、ヨシュアは多くのカナン人たちと戦い勝利して、聖絶していきます。

この聖書の箇所をみると、現代人は、1つの宗教が、1つの民族を独裁的に滅ぼしているというように見えてしまうのですね。

 

ですが、それは現代の当たり前、常識の世界で聖書を読むのでそう見えてしまうのです。

 

わたしたち現代の世界では、ほとんどの国が聖書から出た正義を憲法という法律で、固定させ、その憲法には、「人権」が書かれています。

なぜ、人権を憲法に書く必要があるのでしょうか?

 

それは、人間にとって、人権は、当たり前ではないからです。

 

もし、人の中に、愛や正義があり、人権は当たり前で、正しいことを選べるのなら、憲法に人権を書いて固定する必要などありません。

 

わたしたちが生きている現代は、その憲法を基準にした聖書の正義がまかりとおっているのです。

 

これを逆にいえば、憲法がない時代、前の時代では、人権は無かったということです。

 

 

人権という基準が無かった時代と、人権が当たり前にある現代を同じ価値観で、理解しようとしても、理解できないのです。

 

ヨーロッパが聖書を認め始めたのは2000年前です。

 

そして、ヨシュアがいた時代は、さらに1400年も前の時代なのです。

 

その時代には、法律というものが、少なく限られた文明に法律がある程度で、法がない時代にあった民族などでは、悪が正義であり、悪が愛であると考える民族もいたのです。

いわゆる現代でいうところの、連続殺人犯の正義です。

 

彼らは心から正しいと思って悪をしているのですね。

 

そして、恐ろしいことに、人権が無かった時代には、そのような正義が、民族レベル、国レベルで存在していたということです。

 

日本では、白人は悪い人種であるといったプロパガンダが広がっていますが、白人社会に生活すると分かりますが、白人は日本人と比べても変わらないぐらい優しくて論理的です。差別などもする人はごく稀です。

なぜそのような白人たちの先祖が先住民を手にかけたのでしょうか。まったく何の正義もなく、そんなことが出来たというほうが、おかしな話です。

今から200年ほど前まで、世界中には聖書の価値観、人権は存在していませんでした。

 

どこにいっても、恐ろしい当たり前が行われていたのです。

 

人が人を食べていたのです。

 

これを原住民たちは、悪いことだとは思わず、それが日常的なところもあれば、儀式の時に行われるところもあったのです。

連続殺人犯と同じ正義を笑顔で素直に行っていたのです。

 

ですが、現在では、それらは悪だと固定されています。そして、そういうことをした人たちは刑務所に入れられているのです。

 

これらは200年前の話です。では、3400年前はどうだったのでしょうか?

 

聖書自体も、モーセによって書かれ始めたばかりの時代です。あらゆる正義や愛の価値観が存在し、それらを悪だと認識さえしていなかった民族も存在したのですね。

 

ですが、カナン人たちは、自分たちが悪魔側であることを認識していました。そして、それを正義としていたのです。力のある国だったエジプトを本当の神を信じるイスラエル人たちが、脱出して、カナンの地に向かって来ていることを彼らは恐れていたのです。

自分たちが、悪魔側である認識を持っていたのですね。

そのカナン人の中に、ラハブという女性がイスラエル人たちに情報を流すのですが、彼女もカナン人が悪側だという認識を持っていました。

 

それほどに、カナンの地は、悪が広がっていたのです。

 

ヨシュアは、神様の教えを守り、力強く戦い続けました。

 

人を食べてもいいという正義と人を食べてはいけないという正義の戦いです。

 

そして、人を食べてはいけないという正義を持つイスラエル人が勝利して、カナン人は、奴隷とされていきました。

 

刑務所の囚人に正しい価値観を与えるように、奴隷制度は決して悪いことだけではありません。正しい価値観を理解した人は解放され、正しくない価値観を信じ続ける人は、危険なので、自由にはしておけないので、奴隷にしておくのです。

 

本当なら聖絶するところを生かしておいて、わざわざ教育するという手間を使うのが、奴隷制度なのです。

 

オウム真理教が、なぜカルトなのかというと、もうすでに現代では、人権を理解している人たちばかりなのに、ポアするという行為に出た事です。

人権を理解している人を奴隷にしたり、聖絶するという訳の分からないことをしていたから、カルトなのですね。

 

聖書などの正しい教えを無理やり自分たちの独自の解釈で悪用したので、カルトなのです。

 

連続殺人犯は、その連続殺人犯の価値観、選択したことにあわせて、処刑しなさいと聖書は教えているだけであって、正しい人権を理解して生きている人を処刑するのは、あきらかに間違いなのです。

聖書には、目には目を、歯には歯をと教えています。カナン人も自分たちが選んだ正義によって、イスラエル人に聖絶されたのですね。

そして、イスラエル人の価値観を理解できるような人、理解しようとしている人は、奴隷にして、脳に人権を植え込んでいくわけです。

 

 

ヨシュアは、カナン人だけを裁いたのではありません。悪を選んだイスラエル人も同じように裁きました。正義を固定できる唯一の神様をないがしろにしようとしたイスラエル人は、ゆるされることはありませんでした。

 

神様なしには、人は愛や正義を固定することはできないからです。

 

ヨシュアは、正義を固定し、悪を裁くという価値観を世界に知らしめた人物のひとりだということです。

 

この出来事は、世界を変革したとも言えるかもしれません。

 

悪を行っていても、自分たちの民族の土地であれば、それは許されていた時代に、悪をしていれば、善を正義とした価値観の勢力に滅ぼされてしまうという流れを作り出したということです。

2、ヨシュアとイエスキリスト

「ヨシュア」という名前と「イエス」という名前には、関連があります。

 

実はイエスという名前は、イエス様の時代では流行っていた名前で、イエスキリストの他にもイエスという名前の人物もいたのです。

では、そのイエスという名前の由来はというと、実はヨシュアから来ているのですね。

 

ヨシュアという名前は、ヤハウェイの神様を崇拝するという意味が込められています。

 

そして、そのヨシュアは、発音の仕方によっては、イエスとなるのです。

 

ベンという名前が、実はベンジャミンという名前だったり、ヨセフという名前が、実はジョセフという名前のように、名前は発音などによって同じ意味合いなのに、変わってしまうものなのですね。

 

あだ名みたいなものでしょうか。

総一郎を「そうちゃん」と呼ぶように、ベンジャミンを「ベン」と呼ぶわけですね。

 

旧約聖書は、とても不思議で、あらゆる出来事、まったくイエス様の時代とは違うのに、イエス様を表してしまっている物語が多いのです。

 

アブラハムと不妊の女サラに天使が現れ、イサクが生まれる。

勇者サムソンの両親にも天使が現れ、サムソンが生まれる。

ヨセフとマリアの前に天使が現れ、イエス様が生まれる。

 

あらゆるところに、イエスキリストとの関連性が、大量に存在してしまっているので、ユダヤ人は、旧約聖書よりもタルムードという書物を優先に変えてしまったほどです。

 

旧約聖書にあまりにもイエスキリストが存在しすぎているのです。

 

このヨシュアもまた同じで、激動の時代に生まれ、指導者として、先頭にたって戦い続けました。彼の行ったことは、世界中に広がり、他民族間での戦いがはじまり、帝国などが現れ始めます。

 

もちろん、良いか悪いかは別にしてです。

 

イエス様が生まれた時代は帝国などが広がってピークを迎えているような激動の時代でした。何とかローマ帝国は、自分たちの支配を維持するためにやっきになって、秩序を守ろうとしていたのです。反乱があれば、徹底的に弾圧するわけです。

 

弾圧されれば、それに反発する人々も増えると、悪が悪を呼んで、悪のサイクルが、ぐるぐると回っていた時代です。

 

そこに、イエス様は、まったく戦うことをせずに、愛と赦しによって、その悪のサイクルを打ち破りました。

 

多神教という表面的に仲間にしていく手法は、のちに多くの問題を残していましたが、一神教という価値観の固定によって、根本的な基礎と共通点を見出すことによって、問題を未然に防いだのです。

 

戦いや反乱、犯罪を劇的に減らしたのです。

 

あらゆる領地の地主や王族貴族は、こぞってキリスト教を受け入れるようになりました。民に固定した正義を脳に植え付けることの有効性を認めたのです。

 

愛と赦しを説いて、優しい社会への転換も芽生えていったのです。

 

人が使っていた世紀までも、変えてしまったのは、イエスキリストです。

 

ヒストリーとは、ヒズストーリーのことで、彼の物語。イエスキリストの物語こそが、歴史であると言われるほど、明確な論理に基づいた固定された正義を人々に与え、のちにそれが人権となっていきます。

 

アダムは、イエスキリストの雛形であると聖書には、書かれていますが、旧約聖書には、あらゆるイエスキリストの雛形的存在や出来事が、書かれていて、そのうちのひとりが、ヨシュアだということです。

 

次々と悪を打ち破っていったヨシュアは、罪の最後の報酬である「死」を打ち破られたイエス様の雛形なのですね。

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