思考の変化

目には目を、歯には歯をとは、どういう意味なのか

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聖書の出エジプト記には、目には目を、歯には歯をと書かれています。

 

この言葉をみると、やられたらやり返せといった復讐のようなイメージが連想されるのではないでしょうか。

 

聖書は、復讐することを肯定しているのでしょうか。

 

目には目を、歯には歯をの意味とはどういうことなのでしょうか。

1、聖書は、増幅する復讐を肯定していない

出エジプト記21章24節

目には目、歯には歯、手には手、足には足

 

このように、聖書には、目には目、歯には歯と書かれています。この言葉は、聖書だけの言葉ではありません。聖書よりも古い時代に書かれたとされている(実際には、古いかどうかは分からない)ハンムラビ法典という古い法の教えにも、同じように、歯には歯を、目には目をという裁きの基準が書かれています。

 

この言葉は、聖書だけの言葉ではなく、他の土地でも同じように使われ、世界中に広がった共通点の1つでもあったということです。

 

この言葉を聞くと、目をやられたら、目をやれといった、復讐の言葉のように思うかもしれませんが、実際は、逆です。

 

復讐という心は、理性を失わせて、やられたこと以上のことをその相手にやってしまうことがあるのです。

そうすると、復讐が復讐を生み、どんどんエスカレートしていきます。

 

片目をやられたら、両目を、右腕をやられたら、両腕と両足をと、倍返し、倍々返しで、復讐をしていけば、組織を運営することが困難になってしまうのです。

 

聖書の21章24節だけをみると、復讐のように思うかもしれませんが、その前後をきちんと読むと、悪を増幅させないための戒めとして、使われている言葉なのですね。

 

出エジプト記21章20-26節

もし人がつえをもって、自分の男奴隷または女奴隷を撃ち、その手の下に死ぬならば、必ず罰せられなければならない。しかし、彼がもし一日か、ふつか生き延びるならば、その人は罰せられない。奴隷は彼の財産だからである。もし人が互に争って、身ごもった女を撃ち、これに流産させるならば、ほかの害がなくとも、彼は必ずその女の夫の求める罰金を課せられ、裁判人の定めるとおりに支払わなければならない。しかし、ほかの害がある時は、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。もし人が自分の男奴隷の片目、または女奴隷の片目を撃ち、これをつぶすならば、その目のためにこれを自由の身として去らせなければならない。

 

このように、前後をみると、主人が奴隷に必要以上の罰を与えないように、戒めている言葉なのです。

 

創世記には、アダムとエバの物語が書かれています。そして、そのふたりには、カインというこどもが生まれるのですが、そのカインは、弟アベルを殺害してしまいます。カインは、はじめての殺人をしてしまい悔い改めるのです。すると、神様は、そのカインを罰するどころか、カインを守るために、しるしを与えられ、カインが復讐されないようにされたのです。カインに手を出したものは、7倍の復讐を受けると神様は言われたのです。そこで、カインへの復讐は、誰も行わず終わりました。

 

カインとアベルの物語>>

 

カインは、その後は、悔い改めたと思われるのですが、そのカインの子孫は、悪を発明していきます。そして、神様がカインのため、復讐を終わらせるために、与えた7倍の言葉をカインの子孫レメクは、勝手に神様の言葉を利用して、77倍の復讐をかかげます。

 

それは、傷つけたものは、その命をといった増幅する復讐の発明です。

 

増幅する復讐は、悪から来ているもので、増幅させない復讐、裁きは、正当なことだということです。

 

そして、法律や聖書などがいう目には目を、歯には歯をというものは、悪を増大させないための戒めであり、正当なものを教えているのですね。

「歯止めが効く」という言葉通りだということです。

 

 

大切なものを奪われた人は、感情を悪にゆだめてしまう場合があります。

食べ物の恨みは、恐ろしいという言葉がありますが、奪われると感情論に流され、歯止めがきかなくなります。

 

感情は、良いもののように思われがちですが、感情は、とても恐ろしいもので、感情に流される人は、思考を停止させてしまいます。自分がすべて正しいという思考のまま停止して、感情をぶつけ、ストレス発散しようとしてしまおうとするのです。

 

言葉がしゃべれないこどもは、伝えたいことを伝えられないことで、ストレスになり、おもちゃを壊してしまったり、悪いといわれることをしてしまったりします。ストレスを感情のまま暴発させるのですね。

 

体は大人でも、精神がこどもである人は、現代では数多くいます。本当の事実や真実を知らされておらず、本当に大切なことを脳にいれられていないまま、大人になっているので、こどもの精神のまま悪を選ぶ人が現代は、多いのです。

 

宗教などを信じて、神様を信じている人は、歯止めが効きます。神様を信じている人は、常に複数の考え方を持ち合わせます。そして、自分は不完全であり、神は正しいことをされる方だと思考がまわるので、大人の対応ができるようになるのです。

 

感情だけに流されず、感情の上に、神様の教えを置くので、大人になれるのです。

 

ですが、神様を信じない人は、自分が神様であり、自分中心に世界が存在しているので、その自分を傷つけた者をゆるしません。歯止めが効かないのですね。祖父母などから教わった教え、道徳を大切にする人は、歯止めが効きますが、そのように、感情の上に神様の教えがなければ、人は、感情に呑み込まれて、悪を正当化して、行っていってしまうのですね。

 

王族や支配者ほど、この復讐の連鎖を止めようとします。支配者、リーダーの選択によっては、悲劇が起こり、そこから復讐しようとする人が現れるからです。それを恐れて、増幅する復讐はよくないと、法律などでも教えるわけです。

 

フランス革命でもそうですが、王族貴族の不正を必要以上に煽り立てて、あることないことを広げ、神を心から信じていない人たちを感情的にさせて、暴徒化させていきました。神を信じているプロテスタントなどは、王族貴族を助けようとしたり、感情論に流されずに、正しさを感情の上にのせて、行動しましたが、神様を利用しているようなひとたち、心から信じていないひとは、こどもが誘導されるように、暴れたのです。

 

自分たちは、正しい、目には目を、歯には歯をといった復讐を増幅させる間違った考え方で、感情に呑み込まれていったのです。

 

ものすごく優しく温和な人が、突然、キレて歯止めが効かなくなるというケースがあります。例えば、事故を起こしてしまい、相手から頭越しに責め立てられ、優しかった男性が、急に変貌して、暴力を振るい始めたという事件もあります。

 

頭が混乱して、思考停止してしまうと、そのようなことになってしまうのです。精神が大人であれば、暴発せず、うまくストレスを流すことができるのでえすが、こどもの精神のまま大きくなってしまうと、脳がついていかずに、暴走してしまうのですね。

 

失敗を沢山している人は、暴走しずらいですが、失敗をあまり経験していない人は、暴走してしまいやすく、脳が混乱してしまうのです。

 

こういう暴走してしまう一面をみると、その人への信頼は、薄れてしまいますが、そうではなく、それは脳が情報においつかず、その人ではない状態になっているだけで、そういった間違いを繰り返して、人は大人へと成長していくのですね。

 

成長の過程の一環としてみるべきですが、不安から法律や教えなどで、そういったことを教えていないと、人は脳が暴発しやすくなってしまうので、常に、教えなどを脳にいれていく必要があるのですね。

 

悪がすべてなくなれば、そういったすれ違いや悪の増大も数を減らすのですが、まだまだ世の中は、悪が大量に存在している時代なので、正義の武具をつけて戦い続けなければいけないのですね。

 

その悪の1つを増大させないための教えが、「目には目を、歯には歯を」という言葉なのですね。

2、裁くことは正当なことか

神様は、裁くことを認めています。悪を人が手に入れた時から、悪をすれば、悪が帰って来るという世界に、神様は地球の環境を変えられていきました。

人は、悪を取り入れてから、死ななかったものから、死ぬものとなり、さらに悪を増大させたので、過酷な今のような環境にまで、地球を劇的に変化させられました。地球の環境がまったく洪水前と洪水後では違うので、今では恐竜は生きられず、存在していないのです。

 

今でも、神様は、豊で素晴らしい環境を与えられていますが、大洪水前は、さらに祝福を与えられていました。人は、1000年近く生きれる地球環境だったのです。ですが、人はそれを悪のために利用しました。神様は、さらに過酷な環境にして、人に悪をさせないための試練や災いを与えられたのです。

 

神様は、悪人にも雨を降らされます。神様の目からみれば、人の基準の善人も、悪人も変わらない愛する子なのですね。

 

あのカナン人でさえも、神様は、400年も時間を与えました。

 

そして、イスラエル人にさえも、苦難や試練を与えられ続けているのです。

 

ですが、その試練や裁きは、愛のためです。悪をすれば、悪が帰って来ることを体験するために、神様が用意されているわけです。

わたしたちが、今、苦しんでいるのもそのためです。

 

正しいことは、正しいのか、悪いことは、悪いのかと冷静になって考えなければ、感情や悪に流されてしまうのです。

 

どちらか解らないといったひとたちは、神様は、守られます。例え、善だと思っていたことが悪であっても、その人が、解らずにやっていたことであると神様は、知っておられるからです。イエス様は、十字架刑に架けられた時、「この人たちはわかっていないのです。おゆるしください」と祈られました。解っていないで行っていることと、解かっていて行っていることには、差があるということです。

 

世の中には、悪をすることをそのまま正義や愛だと本気で考えて、実行する人がいます。

 

こういった人には、目には目を、歯には歯をという裁きが適応されます。

 

大航海時代がヨーロッパ世界で起こり、聖書の価値観が、世界中に広がりました。人には人権があるという聖書の教えを持って、世界を探索したわけですが、世界には、人には人権はありませんでした。

 

現代人が、焼き肉屋で肉を食べるように、それを人にも行った文化ばかりが世界中に広がっていたのです。

 

彼らは、それを正義や愛だとして、行っていました。それらをやめるように言っても聞きません。

 

仏教などの道徳的な宗教は、キリスト教は認めました。人権に近いものを教えていたからです。ですが、世界の宗教には、悪を正義とする教えも広がっていたので、そういったものを捨てずに、ずっと信じて実行していこうとするものの腕などを斬り落としました。

 

これを悪いことだと言う人がいますが、違います。目には目を、歯には歯をを実行したのです。

 

目には目を、歯には歯をであれば、その人が牛を食べるように人にしたように、その人にもすることですが、それ以下のこと、腕を落とすだけで済ませて、生かしておいてあげたのです。

 

連続殺人犯は、どれほど残酷なことをしているでしょうか。ですが、それらのことをした彼らを処刑するのは、それ以下の人道的な行為で、処刑します。目には目を、歯には歯を以下の人道的な行為が現代の処刑です。

 

なるべく苦しませないように、処刑するのです。

 

被害者の家族からすれば、どうして、そんな相手に、人道的な配慮をしなければいけないのか?とゆるせない気持ちになることでしょう。しかし、彼らと同じように、感情論で行動すれば、悪を肯定してしまうことになるのです。

 

悪は、悪を生み、増大させます。だからこそ、ブレーキになる理性が必要になるのです。

 

そして、イエスキリストが悪を消し去る行為を実行しました。悪を本当に消すことができるのは、愛やゆるしだということを世界中に教えたのです。

悪に対して、悪で返しても、悪は消えません。しかし、悪に対して、愛やゆるしを示せば、悪は消えるのです。

 

これは戦争などでも、使われてきた真理です。戦った相手をゆるすことで、仲間になったというケースが、ゴロゴロしています。

 

結婚生活でも、相手の悪を見すぎる人たちは、離婚します。しかし、愛やゆるしによって、お互い支え合うことをする受け入れる人たちは、離婚をしません。

 

人なのですから、絶対に悪を持っています。まったく悪を持っていない人などイエス様以外にはいません。

 

夢や希望のない民は滅びると聖書には書かれていますが、夢や希望を与え、前向きに力となっていくのは、愛やゆるしなのです。

 

現代資本主義を広げたプロテスタントは、禁欲主義で、自分にはものを与えず、他人に与えるということで、経済を豊かにしてきました。

 

日本の神道とプロテスタントの思想は、似ていて、与えることで豊かになれることを教えているので、日本は今でも経済が発達してしまっているのです。

 

詐欺大国ともいわれる日本ですが、詐欺師の商品さえも売れてしまうほど、人を信じ、愛やゆるしで前に進もうとする民族なのですね。

 

今はそれが忘れかけているので、停滞してしまっていますが、日本ほど、急激に発展した国はありませんでした。

 

もちろん、そのために生まれた多くの悪もあるわけですが、それ以上に餓死することもない日本の生活をほとんどの人が、手に入れているのです。

 

歯には歯を、目には目をよりも、上にあるのは、愛や赦しなのですね。

 

裁くことは裁くが、裁きっぱなしではないということです。

 

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