歴史

どうしてキリスト教は宗派で分かれてしまうのか

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キリスト教に関わらず、宗教というものは、宗派に分かれてしまいます。

仏教と比べれば、正典が固定されている一神教は、宗派の数は少ないのですが、それでも100以上にも分かれてキリスト教の宗派はあります。

 

なぜこのように宗派に分かれてしまっているのでしょうか。

無神論者などから言えば、争っているように見えてしまう人もいるようですが、宗派に分かれるのは何故なのでしょう。

1、宗教を利用する者がいるから

宗教に携わるひとたちの中には、大きく分けて2種類の人がいます。

①1つは、宗教に従う人たちです。神様を信じて、神様から与えられた教えを頭の中にいれて、悪に満ちた世の中でも、善をするように歩もうとする人たちです。

 

②もう1つは、宗教を利用する人たちです。神様や宗教を自分の下に置いて、宗教を利用して生きるので、悪などを認めます。麻原彰晃などと同じような考え方です。

 

神様は心の中にしかいないと考える人もこの利用する者の中に入ります。

 

この2つは、大きく違う差ですが、②のひとたちは、神様でさえも利用する人たちなので、①が違うと言っても、同じだ。仲間だ。仲良くしましょうと歪曲した考え方にそらして議論をしてきます。

 

②の人たちは、神様でさえも利用するので、聖書に書かれていることを無視した行動をしたり、恐ろしいことに聖書にさえも手を出して、一部分を書き換えるということさえするのです。

聖書は、固定されているからこそ、そこに正当性があるのに、その聖書を時代とともに書き換えるのであれば、何が正しく何が正しくないのかを固定して教えることなどできません。

 

人が時代とともに、書き換えるのなら、それは人の考えだからです。

ですが、聖書は、一貫して固定された神様の教えが伝えられてきたからこそ、正当性があり、人の上に神様、人の上に神様の教えを置くことが出来るのです。

もし、聖書がなければ、連続殺人犯を裁くことも人間にはできないのです。

 

中世まで憲法がなく、人権がなかったように、今も人権は手に入っていなかったのです。

 

その聖書を②のひとたちは、恐ろしいことに手を出すのですから、世の中が乱れて、犯罪を広げる行為になるのですね。

 

それでいて、ゆるしあいましょう。争わず、一緒に、仲良くしましょう。というのは、おかしなことです。連続殺人犯がそのように言ってきて、みなさんなら「そうですね。仲良くしましょう」と笑顔で認められるでしょうか。その連続殺人犯が悔い改めて、①のような人になれば、認めますが、②のままでいい、人それぞれでいいと悔い改めないで、犯罪ばかりをしているのなら、ゆるしなどを利用しているだけで、それはイエス様もゆるさないことなのです。

 

イエス様と一緒に十字架刑にかけられ、悔い改めイエス様を信じた犯罪者は天国にいくことができました。ですが、もうひとりは、悔い改めずに、イエス様に文句を言うだけでした。

 

イエス様は、悔い改めた人は、何度もゆるしなさいと教えられましたが、悔い改めていない人もゆるしなさいとは教えてはいないのです。

 

宗教や神様を利用する者たちは、組織に属して利益になると、その利益、地位や名誉にしがみつこうとします。

組織そのものの安定が大切ではなく、自分の地位のための思考になり、正しいものさえもわざと裁くという行為をするようになります。

そのように地位や名誉の欲望に染まっていたカトリックは、あらゆる正しい人たちを無理やり悪人として裁き続けました。

 

気に入らない人は、無理やり冤罪を作り出して裁いていくのです。

それらが原因でカトリックは、崩壊していきました。

キリスト教に従うのではなく、キリスト教を利用しはじめたことが、カトリックを崩壊させたのです。

 

あらゆる人々からカトリックは恨まれ、それが爆発したことで、フランス革命などの悲劇が起こってしまいました。

 

これはキリスト教だけではありません。日本の大乗仏教も同じで、仏教に逆らえば、キリシタンだというレッテルを貼られてしまうので、人々からお金を権力を利用して、奪っていたので、明治時代になって多くの仏教は乗り込まれて、仏像が破壊され燃やされていったのです。

 

今の政治家や官僚、国に守られた大企業などを見ればわかるように、権力を利用していると、下の人間への態度が悪くなってしまうのです。大企業の下請け企業をイジメるように苦しめるのも、歴史をみれば、人々の不満が広がり、いつかは、自分たちの権力が崩壊するきっかけを作ってしまうのです。

 

イエス様は、教会が悪いものになると預言されていました。まさにその預言は的中しています。教会とは建物のことではなく、ひとりひとりの中にあるとイエス様は言われたのですが、組織に属することで人は安心感を得たように思い込んでしまうので、そこが危険なところなのですね。

2、想像力という能力を人は持っているから

宗派が分かれてしまう理由の1つは、人には想像力というものがあるからです。

 

例えば、1+1=2ですが、人の想像は自由に考えられるので、1+1=342293だとさえ考えられます。

 

赤色をみて、「これは青色だ」と想像することもできます。

 

自分のことをまったく知らない人を好きになっているのに、その人は、自分のことを愛していると思い込むことも人にはできます。ストーカーですね。

 

人の想像力は、「現実を無視して」いろいろな考え方を生み出せるのです。

 

例えば、木や石で人の手で作ったものを神様だと思い込むこともできます。

聖書には、マリアはただの女性であり、イエス様も何度もマリアをつきはなしているのですが、カトリックはそのマリアを聖母として崇めたりもします。

そして、木や石で形作り、その物質に祈りをささげはじめたりもします。

 

聖書は、このような空想を信じる行為を大昔から否定し続けました。

それが、偶像禁止です。

 

何度も何度も、人の思い込みである偶像を否定し続けたのですが、いつの時代も人は、偶像に騙され続けているのです。

神様がいないという偶像思想もまた空想にすぎません。事実に基づけば、神様がいないというトンデモ論など信じることなどできないのです。

全知全能の神様が確実に存在する証拠>>

上で書いた、宗教や神様を利用する者たちは、この偶像を多いに利用します。あるものをないと言ったり、ないものをあると言うわけです。

 

太陽系には、太陽は1つしかないのです。なのに、太陽はいくつあってもいいではないかと言い始める人もいます。

 

人が考える空想を基準にされたら、世の中には、基準はなくなります。法律もなければ、ルールもなくなり、悪を悪だと認識することも出来なくなるのです。

 

これも、キリスト教だけのことではありません。あらゆる宗教が言えることで、突き詰めれば多神教が間違いであることがここでも分かるのです。

ちなみに、神道は世界の多神教とは違い一神教的な思想です。特に伊勢系神道は、一神教です。

3、指導者がいる

圧倒的に宗派が少ない宗教と言えば、イスラム教です。

なぜ、イスラム教は、宗派が少ないのでしょうか。

 

それは、上で書いたものをことごとく否定しているからです。

キリスト教は、三位一体の神様を信じる神道的な思想ですが、イスラム教は、完全な一神教で、神様は三位一体ではないと教えます。

 

ですから、絶対の神様という考え方が統一されているのです。

 

なので、神様を利用したり、神様を自分たちの下に置くという発想はしないのです。

 

 

また、空想をしても、その空想を信じ込むことをしません。ですから、イスラム教は世界中の偶像を壊してまわりました。あらゆる偶像、空想上の正義や愛を否定して、平和で安全な世の中を実現していったのです。

 

あまりにも正しいので、アメリカや世界からイジメられて、わざと戦争を起こされ悪者にされていますが、彼らは冤罪で攻撃されているだけで、悪いことはしていません。

 

1と2のことがないので、イスラム教は、宗派が極端に少ないのです。かなりシンプルで、しっかりしているので、政治や経済なども人々を苦しめるようなシステムになっていません。

 

しっかりと固定された宗教の教えが人々の脳にプログラミングされているので、破壊されにくいのですね。

 

そして、イスラム教には、牧師や神父という指導者的な人がいないのです。

 

信者たちは、それぞれが、固定された聖書やコーランを読んで、指導者の考えではなく、固定された正典を各自が理解しようと日々を歩むので、指導者たちに権力が集中することがないのです。

 

キリスト教も、正しい教会ほど、信者に聖書を読みなさいと教えます。なぜなら、聖書を基準にしなければ、牧師などが言っていることが正しいのか解らないからです。

エンジェルマップも同じで、エンジェルマップは、人と聖書をつなげたり、人と神様をつなげるためのサイト、ヒントを与えるサイトですが、本来は、人と聖書が、つながっているほうが、正しいのです。

 

人と神様が直接つながり、聖書とつながっていれば、エンジェルマップなどのサイトなど不必要なのです。

ですが、世の中は乱れ、何とつながっていいのか解らないというむちゃくちゃな世の中になっているので、今は利用されているだけで、本当なら人と聖書、人と神様というように、各自が、人を仲介させずに、神様を知ることが正しいのです。

 

キリスト教の中でも、忠実に、教会にいって聖書をほとんど読むだけという教会もあります。本当は、この教会のしていることが正しいのです。

 

人と聖書の間に、他人をいれれば、その他人の脳が、間に入り込んでいるので、少し汚れてしまうわけです。

 

なぜなら、その他人もたかが人間であって、悪もあれば罪もあり、完璧な人など存在しないからです。

 

イスラム教がしていることは、見習うべきところが、大変多いのですね。

 

だからといって、正しいというわけではないのですが、正しい人間社会を造ろうとするのなら、イスラム教のシステムは、理にかなっています。

 

エンジェルマップを定期的に読んでくださっている方もいて、大変うれしく思っているのですが、エンジェルマップが正しい基準にしてはいけません。

正しい基準は、聖書であり、神様しかありえません。

 

エンジェルマップは、ただ先人たちの知識を流しているだけで、復古運動の一旦を担っているだけです。この世界は、エデンの園のような世界になるように、日々精進していき、成長し続けているのです。

 

すべてが復古運動であり、先人の知恵や知識なのですね。

プロテスタントが原始キリスト教を復古させようとしたようにです。

結局、はじめから神様が造られたものを脳の中にプログラミングして、生きているのが人間なので、自分の考えだというものは、ほとんどないのです。

 

 

今は宗教が沢山ありますが、それぞれの宗教を信じたとしても、誠実さなどを忘れなければ、いつか聖書にすべての宗教が辿りつきます。世界を説明できているのは、固定された聖書しかないからです。

 

コーランでもなければ、タルムードでもないのです。

 

アダムから広がったわたしたちは、70億人いますが、みな同じ家族であり、分かれる必要などありません。分かれているというのは悲しいことで、違っていることを認めているようなものです。高校野球にしても、オリンピックにしても、国や県の対抗意識を持つことは、悲しいことです。

 

1000年後には、科学や学問などが発展し、宗派もなくなり、キリスト教だけになっているかもしれません。今のようなキリスト教ではなく、神道がキリスト教の文化であることも常識になり、イスラム教のシステムが採用されているかもしれません。

 

世界中に、神社がキリスト教として、広がっているかもしれませんね。

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