思考の変化

キリスト教は不自由な宗教なのか

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宗教というと現代人は、束縛される。自由に行動できなくなると思ってしまうようです。

宗教にはあらゆる教えがあり、その教えが自分を束縛してしまうように感じるのかもしれません。

キリスト教も不自由になってしまう宗教の1つなのでしょうか。

1、人は基準には成りえない

秦の始皇帝は、法で世の中をまわそうと考えました。李斯という法律家による法の秩序を目指しました。

法を厳しくすれば、人はその法に従わざる負えなくなると考えたのです。

 

中国には、ありとあらゆる価値観が存在していました。悪さえも善だと考えることは多々あり、悪を極めたといってもいいほど、善悪が崩壊した世界でした。そのような時代には、1つのルール。1つの基準を造ることは決して悪いことではありませんでした。

 

その1つを秦の始皇帝は、法だと考えたわけです。

 

人々に、これが悪で、これは悪ではないという基準を設けることで、秩序を造ろうとしたわけです。

現代人は、聖書の基準である「人権」が当たり前となった世界で生きているので、人間は、別に正しいことを教えなくても、善の行動ができると思い込む人がいますが、そうではありません。

 

人は、狼に育てられれば、狼のように振舞うようになり、そのように育てられれば、それが正義だと思い込めてしまうのです。

 

日本人が、嫌でも日本語で物事を考えてしまうように、脳の中に、どのような情報を入れるのかで、その人の価値観が大きく影響されるのですね。

 

ですから、悪を善だと教え込めば、例え悪であっても、心から正しいことだと思い込めてしまうほど、人間という生き物は、恐ろしいものなのです。

 

憲法には、なぜ人権が強調されているのでしょうか?

 

もし、人にはじめから人権があるのなら、憲法に書く必要などないのです。

 

恐ろしいことに、人は、人権がないという発想が持てる生き物なので、憲法には、人権を強調する必要があるのです。

 

特に、権力者たちには、人権を徹底しなければ、それだけの富と権力があるだけに、被害が大きくなってしまうからです。

 

コンサルタント業界で有名な船井総研では、社長が99%の責任があると教えています。それほど権力者は、下の者に影響を及ぼすことができるというわけです。

多くの人は、善をしたいと願っていますが、世の中の流れ、権力者の考え方に、まるで奴隷のように従わなければ生きていけないと恐れるあまりに、正しいことを正しいとは言えない雰囲気が蔓延してしまうのですね。

 

それは、昔も今も変わらないことでしょう。

 

ですから、権力者に人権を徹底しなければ、いけないと多くの人々の命を犠牲にしながら、やっとてにいれたのが、憲法なのです。

 

憲法は、国民が権力者を縛るものであり、国民の主張なのですが、それは長い間、手に入れることができなかったものなのです。

 

ですが、現代人は、生まれた時からすでに憲法がある時代で生まれ育っているので、善を善だと教えられずに生きていると思っているかもしれませんが、決してそうではなく、知らないうちに、聖書の基準が脳にいれられ、犯罪者や連続殺人犯、悪魔宗教などが行っていることを悪だと認識できるように、脳に正しいマインドコントロールがほどこされているのですね。

 

人は、善も行うことができますが、悪も行うことができるのです。

 

これを否定する人は少ないでしょう。

 

ですから、人を基準することなど、絶対にできないということです。

 

この当たり前のようなことさえも、教えられずに生きていると、宗教は不自由にしてしまうものだと考えてしまうわけですが、その手に入れている自由は、宗教によって与えられていて、知らないうちに、人々の基準が、心の中に安定して、宿しているからこそ、幸せに暮らせるのですね。

 

悪を行うことが出来てしまう人間には、宗教なしでは、組織は、崩壊してしまうということです。

 

日本は聖書の国です。

 

聖書の基準が、人々の文化の中に宿っていて、教えさえもすることもなく、平和の基準を作り出しています。神道がそれを可能にしました。

 

神道は、実は、原始キリスト教であり、本物のユダヤ教なのですね。

 

本物のユダヤ人とは日本人>>

 

カトリックは、キリスト教に従うものではなく、キリスト教を利用するものでした。ローマ帝国の政治目的にキリスト教が利用できるからこそ、ローマ帝国は、キリスト教を国教としたのです。

 

そのため、キリスト教を利用する思想が色濃く残り、間違いを続け、人々をコントロールしようと、あらゆる規制を設けました。

 

カトリックが、黒を白と言えば、白だとなるほど、無理やりな不自由を人々に押し付け始めた時代もあったのです。

 

これらの不自由な状態を打ち破ったのは、聖書でした。

 

カトリックは、人々に聖書を読むことを禁止して、聖職者だけが聖書を読めるようにしました。ですから、聖書に書いていないことさえも、勝手にキリスト教の教えのように歪曲させていったのです。

 

正義感のある聖職者たちは、その不正に気付き、人々に聖書を配り始めました。

 

人々が聖書を読めるようになると、カトリックが言っていることが嘘だということが解り始めたのです。

 

人間的な考え、私利私欲、地位や名誉のために、コントロールしたいという悪の者は、下の者に知識を与えることをしません。

 

自分だけが情報を保持して、優位に立とうとするのです。

 

それは、現代人でも多くいるので解るでしょう。

 

それらの悪が当然だと思われていた時代では、それがまかりとおっていたのですが、聖書を読み始め、人々が情報を脳に入れることができるようになると、それらが悪だということを知ってしまうので、カトリックのパラダイム(世界観)は、崩壊したのです。

 

江戸幕府も、海外の情報を規制しました。のちにそれを鎖国という言葉で表されるようになったほどです。

 

これらの権力者の悪のコントロールを押し通そうとしたものに、自由を与えたのは聖書だったのです。日本も例外ではありません。

長州や薩摩の裏には、海外勢が存在し、聖書の教えによって、大きな権力の悪を打ち破るという自由が手に入り、日本は、急激に近代化を40年で成し遂げたのです。

現在、車を自由に使えるのも、飛行機があるのも、電気を使えるのも、宗教という善に根付いた基準が存在しているからこそ、ゆるされているのであって、そうでなければ、権力者から規制されてきたのです。

 

経済も自由貿易ができるのは、聖書のおかげです。聖書を利用していたカトリックは、経済を規制しました。ですから、プロテスタントの国ほど、経済が発展し、あらゆる情報を自由に手に入れる権利を得ていくこと出来るようになったのです。

 

聖書を信じるクリスチャンは、自分のために富を使うのではなく、他人に富を与えるという主張で、経済が自由にされたのです。

 

禁欲主義だからこそ、信頼され自由を得たのです。

 

この考え方は、日本では大成功しました。日本人は、神道精神によってすでに聖書の基準が人々の中にあり、純粋で嘘をつくと心が痛む民族だったからです。

 

そういった人権を理解できる国民がすでに大量に存在していたので、爆発的に日本は、発展していきました。

 

 

中国や朝鮮などでは、嘘は正義だという考え方があるので、国は法で縛り付けるしかなくなるわけです。信用できない者に自由を与えれば、世の中は乱れるからです。

 

現代人は、宗教をないがしろにしはじめています。宗教はいらないと本気で思い込んでしまう人もいます。

 

少しよく考えれば、そのような非現実的な思想は成り立たないのですが、それに気づけないのです。

 

宗教をないがしろにすればするほど、犯罪的な正義がまかりとおり、結局、自分の首を絞めることになるのです。

 

人は基準に成りえないからです。

 

悪を選べる人間は、基準にできるわけがないので、人間を造り、世界に自然の法則を造り、今でも守り続けられている偉大な神様を基準にするしか、人間には、平和で安全な自由は手にすることなどできないのです。

 

不自由になるのは、人間的なものであり、神様は人間の小さな枠ではありません。広くて大きな枠なので、人は、神様を基準にすれば、自由を手に入れることが逆に出来るようになるのですね。

 

一部の権力者、人間を基準にした考え方が、人を不自由に縛ってしまっているのです。その感覚と同じように、宗教を現代人はみるので、宗教を持つと不自由になるという1つの考えになってしまうのでしょう。

2、律法や法には、副作用がある

ルールである律法や法律は、悪いものではありません。ですが、これらのルールは、副作用が伴っているのです。

 

何が悪いのか?と思うかもしれませんが、ルールを設けるということは、逆に、悪を教えてしまうということです。

 

例えば、家族だけしか会ったことがない幼いこどもがいたとしましょう。

 

彼には、悪を一切、目にせず、善だけを脳に与え続けたとしたら、彼はかぎりなく善の行動を誰にいわれるまでもなく、行ってしまうのです。

 

彼には、悪というプログラムが、脳にはいっていないので、もし、彼が悪を行うとしたら、自分で悪を発明しなければいけなくなるので、悪をすることは、難しいのです。

 

そのようなこどもに、「嘘をついてはいけませんよ」と大人がルールを脳に教えたとしましょう。

 

すると、どうなるでしょうか。

 

彼は脳に、「嘘」というプログラムが入り込み、「嘘」とは何だろう?と考えるようになるのです。

 

 

ルールを教えなければ、その子は、嘘を発明しなければ手に入れることができなかったのに、ルールを教えたばかりに、嘘の存在を知ってしまったわけです。

 

聖書を読むと分かりますが、神様は、モーセの時代まで、律法を人には与えられませんでした。

 

エデンの園では、ルールなどほとんど皆無でした。すべてが自由でした。何をしてもよかったのです。

 

なぜなら、アダムとエバは、善のプログラムしか脳に入り込んでいなかったのです。

 

現代人は、原罪という遺伝子の中や霊がすでに悪が一部はいりこんでいますが、アダムとエバは、それさえも無かったのです。

 

善しか知らないので、悪を選ぶという自由意思もありませんでした。

 

生きること、自然の法則に従うことこそが、自然であり、善であったのです。

 

神様は、99.9999%の自由を与え、何をしてもいいとしたのですが、たった1つだけ、0.0001%のルールを1つだけ与えました。

 

中央にある善悪の木の実を食べてはいけないというたったこれだけのルールです。

 

 

神様は、モーセの時代まで、律法を与えられませんでした。十戒の「盗んではいけない」というルールも、すでに世界に盗みが存在した後に、神様は与えられたのです。

 

 

善悪がすでに入り乱れ、何が正しく何が正しくないのか分からなくなった時代に、律法を与えられ、善を固定する聖書を人間に与えられたのです。

 

 

このように、神様は、2000年以上も律法を人には与えず、すでに神様が与えている自然の法則によってのみ、人に善の基準を与え続けられていたのですね。

 

 

自然界をみれば、ほとんどが善で成り立っています。一部は、人の悪の影響によって呪われた存在もありますが自然界の99%は、善の法則で動いているのです。

 

ですから、人は、生活という文化の中で、善を学ぶことも可能なのですね。

 

 

ルールを設けるということは、悪を教えることにもなってしまうという副作用があるのです。

 

また、律法などには、別の副作用もあります。

 

それは、悪をしてしまった時に、罪悪感という重しがのしかかることです。

 

ルールを固定すれば、そのルールを破れば、罪人であるという証明をしてしまうということです。

 

嘘を正義だという教えの昔の中国人が、嘘をつけば、心を痛めません。ですが、日本人のほとんどの人は、嘘をつくと心を痛めることができるでしょう。それは、嘘は悪だという善のマインドコントロールが心に宿っているから痛めることができるのです。

 

嘘をついて、利益を手に入れるという正義を心から信じているものは、嘘で成功したことを喜び笑うことができてしまうという恐ろしい価値観さえも心に宿すのです。

 

日本人は、神道や仏教など、悪に曲がった宗教さえも、正しい道へと変革させていくほど、心に善が宿っている文化の中を生きてきました。

 

ゆるぎない善が日本人であり、本物のイスラエル人のわたしたちには、備わっているので、あらゆることに、心を傷つけることができるのです。

 

これらは、本当は、素晴らしいことなのですが、知らないで、心を痛めることに苦しみを抱いてしまう人も多いのですね。

 

心にルールを持ち、道徳が宿っているだけに、心を痛めてしまうという副作用があるのです。

 

このため、現代人は、その副作用の痛みを味わいたくないと宗教は、不自由なもの、キリスト教を信じると自由がなくなると思い込んでしまう1つの発想にいたってしまうのかもしれません。

 

何かを手に入れるということは、良い事なのですが、それに気を取られると、悪に流されていきます。

 

ですから、聖書は、この世界のものは、空であると教え、聖書から学んだ釈迦も、欲を否定しました。家族や人の考え方によって善が出来なくなってしまうために、多くを捨てるという決心をしたのです。

 

吉田松陰も、捨てることをしました。

 

イエス様も、人が求めるようなものを持たずに、十字架刑にかかられました。

 

何かを獲るということは、それを失うという恐怖との葛藤になるので、その恐怖から悪を選ぼうとしてしまうわけです。

 

それらは、空であると理解すると、神様以外に、「実」など存在しないと分かるのですが、目の前のものに気を取られると、それにしがみつきたくなってしまうわけです。

 

国のために戦争をして、人を殺めろという考え方もまた、思い込みなのですね。

 

モーセなどの時代では、悪が正義だと心から信じる文化や民族がいたので、それらと戦うということは、正しいことでしたが、現在は、世界の国々の人々は、ほとんどが「人権」を理解しているので、人権を理解している者同士が国のために戦うのは、オウムと同じ悪のマインドコントロールであり、間違いなのです。

 

イエス様は、これらの律法による副作用さえも、完成されました。

 

愛やゆるしが、律法を完成させると教えたのです。

 

誰と戦うでもなく、平和に旅したイエス様は、無言で、十字架刑にかかりました。そして、すべての罪を背負って死んでくださったのです。

 

わたしたちは、律法やルールによって、それを破ったことで、心を痛めることができながら、さらにそこから希望まで与えられたのです。すべての人は、神様からみれば、同じ罪人です。

 

神様は、悪人にも雨を降らされるのです。

 

旧約聖書の神様も、実は愛なのです。

 

悪がはびこった時代だからこそ、律法を強調されましたが、律法がすべてではなく、律法は、むしろ悪をまねいてもしまうのです。ですから、愛やゆるしによって、悪を滅ぼすことをイエス様が教えられたのですね。

 

世界に人権が広がった時点で、すでに戦争をする必要はありません。もちろん、悪を正義とする犯罪者は、警察などによって捕まえ、刑務所にいれなければ、危険ですが、一般人は、ほとんどが人権を理解して、平和に生きようとしているのです。そこに武器を持ってしまえば、悪の連鎖は止めることができません。

 

外交で、日本は愚かだとよく言われます。与えるばかりで、搾取され続けているからです。

 

ですが、それこそイエス様の教えであり、与え続けることで、悪を滅ぼしているのです。

 

何をするのか解らない国より、すぐに騙されるお人好しな日本のほうが信頼されてしまうのです。

 

原油も、日本だけが、高く売りつけられています。それでもyesという日本人は、影ではバカにされているかもしれませんが、だからこそ、信頼されるのです。

 

犯罪者は、善悪を超えて、悪をしますが、本物の善なるものは、善悪を超えて、善をします。お金や物、この世のものは、空であるのでこだわることではなく、世の中に愛とゆるしを与え続けることで、平和を実現していくわけです。

 

信頼ある集団は、経済がまわります。何かを信頼しているから、商品は売れるのです。信頼されないものは、買おうとはしません。

 

製品力なのか、会社なのか、民族なのか、営業マンなのか、何か信頼できるものがあるから、商品はまわるのです。

 

悪をしている集団は、ひとりひとりが、信頼されないので、疑います。疑うということは、経済はまわらなくなり、滞るのです。

 

何度、悪を味わっても、それでも善をするという常軌を逸した価値観が、前に進む原動力となるのですね。

 

イエス様はまさにそれを実行され、世界に人権を与えたのです。

 

人権がない時代は、人は束縛され、不自由でしたが、今の日本人のほとんどの人は、もの凄く裕福で、自由です。

 

昔の王様でさえも、映画を観ることはできませんでした。スポーツをみることも、多くの国の食べ物を食べることも、お菓子も食べていません。それらの祝福は、積み重ねによって造られていき、今もその途中でしかありません。

 

人権を手に入れる前は、人権など夢物語でしたが、実際にそれを手に入れているように、今よりも、もっと素晴らしい世界に未来は向かっているとわたしは思います。

 

悪魔宗教をしていたものたちも、悔い改めて、聖書に従うようになれば、世の中はまわりはじめます。

 

悪魔側の思考のまま、下の者たちを苦しめ続ければ未来では、追い詰められていくだけです。人間の歴史がそれを証明しています。

 

下をないがしろにした政治をしたものほど、下のものから追い詰められていくのです。インターネットがある現代なら猶更です。

 

神様は、カナン人さえも、生かされています。世界に悪魔宗教を広げた種族ですが、そのカナン人の子孫の中にも、悔い改めたものたちがいるのです。

 

神様は、ほとんど無限のエネルギーを与えられています。一部の人間だけが幸せになろうとするからおかしくなるのであって、質素倹約をしながら、与え続ければ、皆が平和に暮らせるのです。植物は、太陽があれば、産めよ増えよで増えていくからですね。

 

神様の自由は、人間の考えを遥かに超えています。悪をすれば、刑務所にいれられるという束縛されるのは当たり前です。神様は悪をゆるしません。ですが、悔い改めて、脳を洗い流して、善をするようになれば、ゆるされるのですね。

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