思考の変化

人間は、神に似せて造られた

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この世界の不思議の1つは、なぜ人間は、人間の形をしているのかというものです。

 

神がいないという「サタニズム思想」を心から信じ込んでいる人は、この世界は、偶然に存在し、わたしたちの存在は、意味なく生まれてきたと現実を無視してでも、信じますが、人間は、人間の形を選びもできないのに、ほとんど100%の確率で、人間は、人間の形で生まれ、存在しているのです。

 

これは、人間がどう考え、どう思うのか関係がありません。

 

地球の形を人間がどう考えようと球であることは、変わらないように、人間がどう思ったとしても、人間には手出しできない事実は、大昔から変わらないのです。

 

どうして、人間は、人間の形で生まれてくるのでしょうか。

 

とても不思議ですね。

 

頭に髪の毛があり、動物のように体全体に毛があるわけでもなく、目は2つです。

 

人間の形を想像してみてください。と言われれば、どうして、みな同じ共通した形を認識するのでしょうか。

 

それは、神様を信じない人間でも、同じように想像するものです。

 

なのに、「偶然」だと頑なに信じ込み、自分の信じている宗教を疑うことが出来なくなってしまっているわけですが、冷静に感情論をはさまずに、現実をみれば、「偶然」などというとんでもない確率は、非現実的なのです。

 

進化論という宗教もあまりにも、非現実的すぎて、偶像思想そのものです。

 

わたしも含めて、人間は不完全なので、意識が向いていないものは、考えに至らなくなってしまいます。ですから、自分が正しいとは考えないことがいいことです。不完全であるということは、間違いないからです。

 

聖書の神様が本物の神様だということは、分からないかもしれませんが、神様がいるということは、現実をみれば、否定出来る人はいないということです。

 

あまりにも、綺麗にこの世界は、創られすぎているのです。

 

聖書には、人間の形のことが、書かれています。人間は、この世界では、特別な存在であることがここからもみて取れ、そして、人間がこの世界を支配し、コントロールする権利があり、実際に人間がどこにいっても、世界に広がっているのです。これも、否定する人は少ないでしょう。南極や北極でさえも、生きていけるほど人間には、特別な力を与えられているのです。

 

創世記1章26-28節

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

1、人間は、特別

創世記1章26・27節

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

 

聖書に書かれているように、人間の形という不思議な現実は、神様の形に似せて造られているというのです。

 

たしかに、人間のような存在は、この地球には、どこにも存在していません。発見されていません。この地球の不思議の1つは、あまりにも有機物・生き物が多種多様にいすぎるというものです。

 

何千万種類という生き物が、この地球には大量にいるのに、人間のような存在は1種類だけです。

 

道具を使い、選択枠が広く、夢をみることも、希望をみることもできる複雑な存在であり、世界中を支配コントロールしています。

 

聖書には、その人間は、特別だということが、ハッキリと書かれているのですね。

 

人は、神様と同じ形で造られているからです。

 

 

ですが、神様に、形というものがあるのでしょうか。

 

それがあるのです。ユダヤ教の聖書解釈では、神様は、自然であり、宇宙であり、世界そのものであって、人間のような存在ではないと考えられてきました。ですが、聖書には、ハッキリと神様の形に似せて造られたと書かれているのです。

 

神様には、形があるのですね。キリスト教では、その聖書の書かれた謎を説明ができます。なぜなら、神様とは、イエス様のことだからです。

 

イエス様は2000年前に、マリアから生まれた存在だと思うかもしれませんが、マリアのお腹から生まれたというよりも、神の霊が、お腹に宿って生まれたのが、イエス様です。

 

イエス様は、はじめの人間アダムよりも先に存在し、そのイエス様の体に似せて、アダムは造られたのです。

 

もちろん、双子のように瓜二つというわけではなく、人間という種類の形に添ったという意味でしょう。

 

われわれと書かれているのは、神様は、三位一体の存在だからです。

1世界である神様、2人間の体であるイエス様、3霊が宿る神様の3つで1つです。

 

人間も同じです。この世界がなければ、わたしたちは、話すことさえできません。文句すらも言えないのです。体があるのは、疑う人は少ないように、体があって人間です。そして、霊がなければ、正しく脳に電気信号を流すこともできません。不思議の1つは、偶然なら、なぜ人間や動物は、的確な電気信号を的確なタイミングで流すことができるのかということです。電気を付けるには、人間が必要なように、脳に電気を流すには、霊がなければ、出来ないということです。

 

このように、人間も、3つで1つの存在として、神様に似せて造られているのですね。

 

 

人間として生まれていながら、不平不満を言って不幸だと考える人がいますが、事実を認めれば、人間として生まれた時点で、わたしたちは、勝ち組です。

ただ、生きているだけで、特別な存在なのです。

 

このような生き物は、どこにもいません。

 

不平不満や神様に文句をいう人の多くは、人間が一番上になり、人間を気にしすぎているというところです。何をおいても、人間を基準に考えようとするのです。

 

犬だったらどうだろうとか、考えません。

 

動物園の動物たちをみてください。檻に入れられ、食べ物だけを与えられ、自由を失っています。犬は、主人を選べません。人間は犬を選べ、どのように何を与え、育てるのかも人間の存在がかなり影響します。

 

なんと不幸なことでしょうか。ですが、動物は、人間のように、そのように考える思考がありません。だから、成り立つのであって、人間は、さらに特別だという証拠でもあるのです。

 

人間として、生まれた時点で、特別だということは、事実からみれば、否定できないのです。

 

恐ろしいのは、人間が悪側の思考を選ぶことができるということです。そのため、被害者が出てきますし、動物にも影響を及ぼします。

 

考えられるからこそ、苦しみも考えられて、それだけに目を奪われると不平不満を言う人になるのです。

 

物凄く優遇されているという事実を無視していく、思考になるのですね。

 

 

人間の素晴らしいところでもあり、欠点でもあるのは、まわりに影響されるというものです。人間は、感情があるだけに、動物以上に環境に影響され、また環境を無視することもできます。

 

その時代で価値観は違います。同じ時代で生きている人間だけでも、ジェネレーションギャップという価値観があるように、環境に影響され、思考が誘導されているのです。これらは、まやかしであり、思い込みです。ですが、その影響を受けて信じ込む人がいるのです。

 

この思い込みから出られる人と出ることができない人がいますが、出ることができないひとは、一辺倒な考え方で生きていきます。

 

海外で、日本に憧れて、来日した女性がいました。日本が大好きだったので、日本で生活しようとしたのです。ですが、彼女は、もといた国に戻りました。そして、日本を物凄くバッシングしはじめました。日本は、違いを受け入れることができないと激しく、バッシングしたのです。

 

日本のことを大好きで、日本語もとても上手に話せるほど、努力したのに、日本の閉鎖的な文化にうんざりしたのですね。

 

そこは、日本のいいところでもあり、欠点でもあるということですね。

 

日本人は、良くも悪くも、空気を読み過ぎるということでしょう。

 

一神教を批判する日本人がいますが、1つの神様で融通が利かないと思い込みますが、どちらが融通が利かないのでようか。

 

神様の幅はとても広いです。人間の小さな枠ではなく、とても広い枠なので、100人いれば、100通りの人間がいて、それを日本は、選択枠を狭める文化性があるのですね。まるでロボットのようにある程度の枠に納めていないと納得しないという気質があるのです。

 

一神教を信じている海外は、大陸が多いので、とても過酷です。多くの違いがあることが当たり前です。日本列島のように、日本人だけがいるというものではないから、一神教で基準をもち、「人権」を固定させて、平和を勝ち取ったのです。それでも、違うが当然なのが、世界なのですね。

 

日本人であるわたしから言わせれば、どちらもどちらで、むしろ日本のほうがいいと思えるわけですが、欠点も理解していきたいものです。

 

人は、このようにあらゆる環境によって、良くも悪くも、その思想、マインドは変わっていくということです。

 

 

ですから、その思い込みだけを信じ過ぎないほうがいいわけです。自分の中の常識を疑うことをすると人間が作り出した、偶像思想をみわけることが出来るようになっていきます。人間社会だけが、勘違いしてそれが当たり前だと思い込んでいますが、実際の世界をみれば、それは非現実的なものなのです。

 

進化論がそれのかたまりです。

 

進化論の正体>>

 

偶像とは何なのか>>

 

人の思考や感情論は、横に置いておいて、世界の事実は、人間は、特別であり、どんな生き物よりも優遇されていることは、間違いないのですね。

2、土によって造られている

聖書には、人間は、土によって造られたことが書かれています。

 

創世記2章19節

そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。

 

この土で造られているということろが、また凄い事です。

不思議の1つは、生き物は、あまりにも、複雑に高性能であるという事実です。

 

現代では、ロボットというものが存在し、人間の手で、土を使って新たな動くものを作り出そうとしています。人間は、難しすぎるので、まずは、単純な構造の虫を再現しようと努力しているのですが、これがまた、難しいのです。

 

虫一匹だけでも、あまりにも高性能すぎるて作れないのです。

 

しかも、あんなに小さいのに、その機能があるのは、驚きです。

 

これほど、高性能なものが、「偶然」存在するわけがないのです。

 

人間はさらに複雑です。

 

虫や動物は、出来事にたいして、まるでロボットのように単純な反応を返しますが、人間は、受ける刺激を無視して、反応を変えてしまうことができるようにも、造られているからです。

 

生き物がいるという事実を信じない人は、すくないでしょう。

 

間違いなくわたしたち生き物は、存在しています。ですが、それは不思議なのです。

 

なぜなら、生き物は、有機物であり、有機物は、無機物から生まれたところは、ただの1つも観測されたことがないのです。

 

無機物がどれほど存在しても、そこからは生き物は、生まれないのです。水があっても、石があっても、土があっても、そこから生き物は生まれないのです。

 

 

あらゆる資源を使って、人間は、パソコンを作り上げることができますが、それは人間がいてはじめて、できることです。

パソコンは、虫や人間よりも簡単なので、造れるのです。

 

わたしたち生き物は、どれだけ無機物があっても生まれないのです。そこに「神様」という存在が、手を加えたからこそ、地球には、多種多様な生き物が存在しているのです。

 

火星には水があったことは分かっていますが、それでも微生物1匹として、未だに発見されていません。一匹もです。

 

微生物の死骸1つすらないということは、地球以外の星には、微生物すら存在しない可能性が高いのですね。

 

ましてや宇宙人などは、いるわけがないのです。

 

どれだけ、地球におちている石をみていても、その石から生き物は生まれないのです。

 

 

人間の細胞は複雑で、傷ついてもまた、その同じ形で修復しようとし、その設計図である遺伝子が傷つけば、設計図がこわれて、傷の痕となります。

 

完璧な設計図であるという人は、現代ではいないでしょう。

 

ですが、ほとんど設計図どおりに生まれ育つのです。一部だけ壊れているのが、現代は普通です。

 

 

盲目の人がいても、口はきける。耳はきこえなくても、触覚があると1部は失ってはいても、その他の機能は正常であることが多いのです。

 

それら1つ1つが、複雑で、人間が再現しようとすると、おおがかりになります。人間の声帯を作り出そうとする研究者がいますが、彼の作ったものは、とても大きくて不完全な声帯だけでも、どうしても再現できず、大きくなってしまいます。

 

それが人間は、男性も女性も普通に首の一部だけでおさわまっているという驚きの事実です。

 

まさに不思議としか言えません。

 

わたしたちのこの世界は、「言葉という情報」で実は、囲まれていて、ありとあらゆるものが、情報で満ちているのです。それを形としているのが、聖書では、土だというのです。土や塵によって人は、有機物とされ、存在し、複雑高性能に形づくられているのです。

 

創世記3章19節

あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。

 

わたしたち人間は、神様であるイエス様に似せて、土から造られたのです。しかも、優遇されてです。

あらゆることが出来るように神様から許可を得て、存在しているのです。

 

例え、今のこの体が年をとって無くなっても、霊さえ無事であるのなら、神様ならまた体をわたしたちに、与えることができるということです。

 

イエス様は、死んで蘇られました。そのことは、原始キリスト教徒たちが、いのちをかけて証明し続け、今でも伝えられています。

 

ルカによる福音書24章39ー41節

わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。

 

肉に支配されない新しい霊ではない体を与えられ、また復活する未来もあるかもしれません。

 

 

わたしたち生き物は、とても優遇されていますが、人間はさらに与えられています。すべての哺乳類は、目が2つです。複数目がある生き物は、蜘蛛のような昆虫などですが、それでも単眼です。トンボのように複眼というものもありますが、これもまた全体の目でいえば2つです。

 

なぜ目は2つなのでしょうか。なぜ後ろには目がないのでしょうか。

 

あらゆるところ、この世界そのものが、神様の存在を証明し、わたしたち人間はさらに神様を証明することのできる唯一の生き物なのです。

 

動物は、人間をみると特別な反応をみせるといいます。ライオンなども、腹をすかせているもの以外は、人間を襲うようにはなっていません。人間を襲うように人間が仕向けなければ、動物は、人間を特別扱いするということです。

 

これもまた、不思議なことです。

 

人間は、かなり優遇された能力があるだけに、気を付けなければいけません。人が悪に傾く量が多くなればなるほど、世界を破壊しますし、逆に神様の善に傾けば、世界は優しくなり、増え広がるのです。

 

悪魔は直接人間や世界に手は出せません。一番効率的に、神様の世界を破壊する方法は、人間を悪へと導くことです。

 

人間は、霊だけではなく、体も存在しているからです。ですから、注意して、悪側にならないようにして、優しい世界にしていきたいものですね。

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