思考の変化

必要悪という悪は必要なのか

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わたしたちの生きているこの世界には、必ず「悪」というものが存在しています。

「善」があるということを否定できないように、「悪」があるということも否定できません。

 

刑務所という犯罪者をいれる施設があるということは、犯罪という悪を実行する人間がいることを証明しています。

 

大抵、多くの人は自分の中に悪があることを理解していることでしょう。それは嘘を付くという選択をしたことがあったりするからです。

 

たまに、キリスト教などを表面的にしか知らない人は、聖書やキリスト教は、単純な性善説かのように、清く潔癖のようなものだと考えますが、聖書を読めばそうではないことが解ります。

 

聖書の7割は、人間の失敗である「悪」が書かれているからです。神様に認められるほどの人物は、ほとんどいません。モーセであっても、神様から一度もほめられていないのです。むしろ、モーセは潔癖から程遠い人でした。

 

創世記からアダムとエバは罪をおかし、原罪という悪をその身に宿しています。

 

聖書を書いたイスラエル人は、神から離れて多神教へと歩み、その結果、他国から攻められ、捕囚となり壊滅の危機に迫られます。聖書は、単純な善悪のことが書かれているものではありません。人間の認識の勝つというものでもありません。

 

人は解りやすい成功や分かりやすい勝利を勝ちだと認識しやすいですが、聖書はそのような単純なものではないので、神様であるイエスキリストは、まるで負けたかのように、十字架刑に架けられ処刑されたのです。

 

ですが、それは本当の勝利への道でした。

 

アダムが悪を取り入れてから、歴史とともに善悪は複雑になり、現在に至っています。

 

最終的には、悪は無くなるものですが、今はその途中経過の地点なので、悪も存在し、必要悪というものも存在しているということです。

 

今回は、その必要悪について考えていこうと思います。

1、悪は、全知全能の神様には、不必要

エンジェルマップには、色々なコメントを送ってくれます。肯定してくださる方々もいれば、スパムのようなものまであり、肯定も否定もしないというコメントを頂くこともあります。どれも感謝するべきものだと思います。

 

そのコメントの中に、悪は、創造主が造られたものだということを書かれているものがありました。

 

これも聖書などを読んでいないから出てくるよくあるイメージです。

 

全知全能の神様が存在するということは、誰にも否定できない事実です。

 

全知全能の神様が確実に存在している証拠>>

 

悪は、神様が造り出したものではありません。「悪」というものも、人間がどう考える、どう思うという人間を基準にしたものではありません。神様を否定する人の多くは、どこまでいっても、人間を基準にして、その基準の見方、パラダイムから外れることができず、否定する想いが続いてしまいがちです。

 

聖書がいっている善悪の本質は、人間だけの基準ではありません。

 

人間が地球を作り出したのでしょうか。人間が、ひまわりを生み出したのでしょうか。

 

それらは、人間にはどうしようもできない、この世界に存在する有機物です。人間がどう考え、どう想おうと、ひまわりは、この世界に存在しているのです。

 

世の中には、「人間」には関係ない「事実」というものが存在するということです。

 

ですから、どこまでも、人間を基準にした考え方、世界を観ているパラダイムで考えるのは、世界を正しく観ることはできないということです。

 

善悪の本質も、人間から離れたところにあるということです。

 

 

悪は、どこから出てきたのでしょうか。

この世界そのものである全知全能の神様は、悪を生み出す必要性はありません。聖書が教える「悪」とは、この世界には存在しない空想であり、偶像思想のことです。この世界である神様ご自身を否定し、破壊することが、悪なのです。

 

神様ご自身が、自分を否定するために、悪を造られたのでしょうか。

 

そうではありません。神様は、悪を作ることはできないのです。それは自殺するようなものなのですね。

 

悪はどこから来たのかと言えば、全知全能の神様以外のものから出てきたのです。

すべてを一瞬で作り出せる全知全能の神様は、自分を否定するものなど、ひとつも必要ではないのです。

 

「完全」だからです。

 

ですが、神様から生み出されたすべてのものは、不完全です。

 

人間は、どんな生き物よりも複雑に、知的な存在として神様に造られましたが、その人間も自分の目で自分の頭の後ろを観ることができない不完全な存在です。

 

「完全」であられるのは、全知全能の神様だけです。

 

もし、神様が、「完全」をもう1つでも、作り出してしまったとしたら、どうなるでしょうか。

 

一瞬ですべてを作り出せる存在をもう1つ作り出したとしたら、法則がお互いによって相殺されはじめてしまいます。

 

ですから、神様が造り出すものは、不完全なものであり、能力が制限されたものになります。

 

そして、1つ1つは不完全である「もの」たちは、すべてである神様と共にあれば、平和に「善」だけの世界で共生して生きていけるのですが、神様を否定するという思想もまた知能があれば、発見してしまうのです。不完全であるという事実を無視しても、この世界そのものを否定することを選択する「もの」たちが現れたのです。

 

それが、天使から生まれた悪魔です。

 

悪魔のことを聖書では、神の子と表すことがあります。それは、神の子として天使が生まれたのですが、そこから悪へと堕落してしまったからです。

神様ご自身が、悪を作り出すメリットは、まったくありません。それは自殺や自傷行為にあたる意味不明な行動になるからです。

 

ですが、神様ではない神様から作り出されていった「もの」たちからすれば、神様を否定するメリットは生まれてきてしまいます。

どんなメリットかというと自画自賛、自分の存在意義を他を否定することで、自己を肯定するというメリットです。

 

神様を心から否定するサタニズム思想を信じる人たちも、知らないうちのこの罠にはまっている場合が多いです。その思想が根強く心にあるだけに、そのパラダイムから離れて考えることが出来なくなり、否定する心で満ちてしまうのです。

 

特定の宗教を信じているわけでもないという無宗教のような人、神様の存在を否定するわけでもないという人は、この罠にはまることは、少なく、温和で、共生のシステムにそって生きようと平和的に暮らせますが、心から神の存在がいないと思い込んでいる無神論者は、恐ろしいもので、自分の価値さえも、無意味だという思想をそのまま信じてしまう偶像思想を信じ込むのです。

 

この場合、目の前の利益、私利私欲がその人の正義になり、悪は正当化されていき、世の中を濁らせていきます。それも悪いとは、本当に思わず、正しいと心から信じ込んでいるのです。

 

悪は、神様が造り出したものではありません。完全である神様にとって悪は、不必要であり、自分を傷つけるものだからです。

ですが、神様から造られた「もの」たちにとっては、不完全であるがゆえに、自己主張のために、悪の思想を必要として、生み出していったのです。

その最初の悪が、天使であり、堕天使の悪魔なのです。

 

悪魔は、神様からもらっていた多くの能力を制限され、この地である地球に落とされ、人間を惑わす最初の「悪」になりました。人間が最初ではありません。悪魔は、蛇に入り込み、人間に「悪」を理解させ、原罪を植え込んだ存在です。

 

アダムだけではなく、多くの人間にささやき、ありとあらゆる悪を誘発しようとします。多くのこの世界に存在しない空想、偶像思想を人間に教えていくようにします。

 

そして、悪魔は、悪だけをするというものではありません。善を利用しながら、いつの間にか「歪曲」させて、悪を選ばせようと狡猾に迫って来るのです。

 

無神論というサタニズム思想を心から信じ込む犯罪者思想の一歩手前の人たちも、自分の思想を善だと思い込むのもそのためです。

 

よくよく冷静に考えれば、本質からずれているのですが、それに気づけないのです。

 

感情的に善を考える人もいますが、感情的に悪を肯定することも結局、同じようなもので、感情に左右されているだけなのです。

 

いつの間にか、悪魔であり、サタンの誘導に乗せられて、それを正当化して、信じ込むので、人間には、関係のないこの世界の「事実」を無視していくことにもなっていくのです。

 

悪魔は、狡猾です。単純な犯罪者のようなものではなく、善を利用して、まるで天使であるかのように思わせ、信用させながら、いつの間にか、悪を正当化するように仕向けていくのです。この世界であり、神様である方を破壊し、壊そうとする思想であり、同じように知能がある人間を惑わして、進化論などの宗教を利用して、いつの間にか、悪魔の思想へと導くのです。

 

進化論の正体。嘘と真実>>

 

悪は、神様以外のものからしか生まれず、神様にとっては、悪は不必要なのです。

 

無神論の問題点>>

神の愛とは何か>>

本当の愛とは何か>>

人生には意味があるのか>>

なぜ自殺はしてはいけないのか>>

なぜ人を殺してはいけないのか>>

2、神様は、人間のために、この世を創られた

現実の世界をみても、あらゆる多くの多種多様な生き物がいながらも、結局、人間がこの世界、地球を支配して、増え広がり、あらゆる場所を管理し、支配しています。

聖書を読んでも、あらゆるものが、人間のために造られていることが分かります。

 

天使や悪魔は、体こそない霊的なものですが、その知能は、人間よりも優れていますが、その天使ではなく、神様は、人間を愛され、その人間のために、天使を遣わされています。

 

これは決して、偶然というものではなく、必然的に、人間は、神様から多くの祝福を受けて、幸せになれる能力を授けられているのです。

 

ですが、恐ろしいのは、それほどにまで、祝福されていながら、悪を選ぶということが出来てしまうことです。

 

天使と同じように、自由意思を持ちながらも、さらに体があり、あらゆる知識を理解して行動できる人間は、悪を選べば、どんな生き物よりも、恐ろしい存在となりえるのです。

 

悪魔は、体があり、知能がある人間に近づいたのは、そのためでしょう。

 

 

悪魔は、人間を直接攻撃することはゆるされていません。悪魔を受け入れるような人間に憑りついたりして、ネフィリムなどの悪的な巨人を生み出すことはあっても、霊である悪魔自体が直接、人間に何かが出来るわけではないのです。

 

悪魔は、エバに近づき、アダムも惑わせ、人に悪を宿してから、この世界は、複雑多様になりはじめました。

 

悪を理解した人間にって、多くの破壊や悲劇が生み出されていくようになります。

 

神様ご自身だけを考えれば、悪を滅ぼせば、それで終わりですが、神様は、人を愛されました。自分とは違う意思を持った存在。自由意思を持った人間を神様は、愛されたのです。

 

神様は、この人間の自由意思をかなりの範囲で許可され、ゆるされます。

 

現在でも、悪人がいて生きているように、なぜ神様は、悪を放置しているかのように、許可され続けるのでしょうか。

 

わたしたち人間は、ロボットを作ることができます。パソコンの中に、自分たちの作った世界、バーチャルな世界を作り出すことさえ、今は出来ています。

 

ロボットなどは、人間が作ったプログラム通りに、善悪関係なく、実行し、動いていきます。人間であっても、このように、悪を発生させずに、スムーズに思い描いたゴールに向かうように仕向けることは、簡単に出来るというわけです。

 

では、なぜ神様は、人間にも出来ることをされないのでしょうか。

 

自由意思がなくて、悪のない世界を作るのは、簡単なのです。むしろ難しいのは、悪さえも選択できるほど自由意思がある人間が支配する世界で、悪を無くすことなのです。これほど難しいことはありません。それが本当にできるとしたら、それこそ全知全能の神様という存在だけです。

 

未来さえもみることが出来なければ、自由意思を持った存在するこの世界を天国のような世界にすることは、出来ないのです。

 

神様からすれば、キリスト教徒も、犯罪者も、同じ罪人であり、神様だけを考えれば、不必要な存在であり、世界である自分を傷つける可能性のあるものです。

 

悪を選ぶ人間をどうして、あらゆる祝福を与え続けて、生かされているのでしょうか。

 

聖書には、悪人にも雨を降らされる神様と書かれています。

 

神様は、イスラエル人がエジプトで奴隷となっている400年間、あらゆる悪を行っていたカナン人を生かされていたのです。ソドムとゴモラという悪で満ちた街がありました。これらが街になるまで、どうして神様は、放置しているかのように、許可されたのでしょうか。

 

毒は毒によって制するという言葉があります。人間が悪を取り入れると、そのために、土地はのろわれ、呪われた生き物も発生させ、毒を持た生物も現れました。

 

ノアの大洪水あとは、肉を食べる肉食動物も発生しています。

 

人は、善だけで生きている時は、何をしてもよかったのです。すべてが自由で、悪をするという発想自体がなく、悪を発明することも出来なかったのです。

わたしたちが、どうしても、日本語で物事を考えてしまうように、脳に入り込んだプログラムは、その人の深い指標となって存在してしまうのです。善だけのプログラムしかなければ、悪を発明するのは、不可能ではないにしても困難なのです。

はじめの人アダムやエバは、だからこそ、多くの自由、本当の自由を与えられ、エデンという天国で幸せに、不安もない世界で暮らしていたのです。

 

ですが、悪を選んでからは、世界には、悪のために、あらゆる制限が敷かれるようになったのです。

 

悪をすれば、するほど、不自由になるという法則を神様は、人間に与えられました。

 

これがなければ、悪をしても、祝福されるのであれば、人間は悪をやめる理由を失うからです。神様はこれをとても残念に想います。すべて自由であり、天国の世界を与えたのに、人間が自ら悪を選ぶことで、さらなる制限のある世界へとせざる負えなくなったからです。

 

悪で満ちた人間社会とともに、あらゆる世界を水で洗い流したのは、大洪水でした。その人間社会にいながらも、神様に忠実だったノアの家族だけがいかされ、悪を選ぶ恐ろしさを体験したことで、悪をしすぎると滅ぼされることを理解した人間は、4000年間、まだ滅びずに、増え広がるようになりました。

 

1000歳近く生きれた地球環境ではなくなり、大洪水後は、120歳ほどになるように、人間の寿命は制限され、多種多様な悪も発明されていきました。

 

悪をすれば、悪が自らを追い詰めるように、神様は悪を許可されています。これこそが、現代における「必要悪」というものかもしれません。

しかし、悪自体が必要なわけではありません。悪を選んだ人間が、自らの悪によって傷つくことを体験して、悪をしないようにするためであって、神様ご自身のために、悪があるわけではないということです。あくまで、人間のために、悪を今は許可されているだけです。

 

悪がなかったエデンの時代→悪が入り込んだ時代→悪が極限に少なくなる未来の時代

 

というように、今はゴールに向かうための、途中経過なので、かなりの悪が存在して、わたしたちを苦しめ、わたしたちは、その悪のために、奴隷のようにされているのです。進化論という非現実的な宗教を脳に植え込まされているのも、その1つです。

 

ですから、これらがすべて悪いというわけではないのです。確かに、嘘ばかりで埋め尽くされた進化論という詐偽的な宗教は悪いものですが、それを見抜けないほど、人間は、不完全であるという証拠を突きつけられているのです。

 

未来では、この進化論は、笑い話で、こんな時代もあったと驚かれることでしょう。しかし、そのような幼稚な思想の宗教さえも、人は国や学校などで、教えられれば、心から信じ込んでしまうようになるのです。

 

脳の錯覚は、これほどまでに、効果があるという証拠なのです。

 

人は、不完全なので、騙されない人などいないという証拠を大規模に行われたことで、目を覚ます人が増えるのです。

 

イエス様が十字架刑で死なれる時、弟子さえも逃げて、イエス様のことを知らないと防衛本能のまま口にしました。弟子ではない人ならなおさら、イエス様を神様だとは思わなかったことでしょう。

 

ですが、それから2000年経った現在では、10億人以上もの人たちが、イエス様を神だと信じているのです。

当時のだれがこれを予想できたでしょうか。

 

原始キリスト教は、迫害されて、多くが命を奪われる環境でした。そのような状況だからこそ、原始キリスト教は、ねつ造などができない証拠として、今あげられているのです。権力がまったくなく、命さえも失うかもしれないのに、それを多くが信じるというのは、事実だったからなのです。

 

人の目からすれば、負けているようなことや悲劇であるかのようにしか見えないのですが、実はそれゆえに、未来は善となり、人は憲法で人権を獲るほどにまでなり、人が人を食べることも悪だと認識できるようにまでなっているのです。

 

悪を選ぶことができ、明らかに悪であり、悲劇としか見えないことであっても、それが未来では裏返ることに実際には、なっているのです。

 

必要悪というものは、途中経過である現在の時代では、必要なだけで、最後には、不必要となっていきます。

 

進化論や紙でできたお金という偶像思想のように、一部の狭い人間の枠の中では、あらゆる不平等や不満に押し付けられますが、神様が与えるものは、雄大です。ほとんど無限のエネルギーを与えられ、地球の生き物ぐらい幸せにできないほど小さなものではありません。

 

今は思い込み、脳の錯覚を利用されて、サーカスの象のように、ステージからは出ることが出来ないと思い込まされているだけで、実際は、広大な平原に出て、自由に幸せに暮らすことがすべての人ができるのです。石油などは枯渇するという嘘は、一部の人間のためにある情報なだけで、多くの素晴らしいものを一部の人間が独占してしまっているだけなのです。彼らは、それゆえ前に進めません。

 

もし、多くの人を自由にして、本当の科学や学問を広げれば、さらなる自由が発見されていくのですが、自分たちの悪のために、それが出来ないのです。

 

ですが、今は、少しずつ少しずつ、神様の恩恵や自由が解放されはじめています。悪で押さえつけるのは、限界があることに気づき始めているのです。

 

学校宗教団体で、わたしたちの脳に「当たり前」という鎖の錯覚を植え込んで、汚染させられているので、信じられないかもしれませんが、あらゆるものが、思い込みであり、錯覚で、多くの祝福されるものが、解放することによって存在しているのです。

 

プロテスタント国によって多くの経済が発展した歴史を人間は持っています。カトリックは束縛して、自分たちのルールに人々を縛ろうとしていたので、経済が発展しませんでした。これにも良し悪しがありますが、脳に植え付けられた枠を超えた発想を持ちましょう。

 

もちろん、悪を開放するということではありません。そこは、人権を憲法で理解している現代人なら理解できるはずです。

 

イエス様の十字架刑によって多くの解放が現実なり続けています。あらゆる発想の枠を超えた革命が起こされ、現代に至ります。

 

エデンの天国の世界は、悪によて制限されるようになりましたが、イエス様の十字架刑によって、またエデンのような世界へと戻ることができるように、ゆっくりと動いているのです。憲法で人権があることがその証拠です。権力者の都合の悪いルールが公に存在していること自体、本来はあり得ないのです。

 

当時は、憲法や人権の思想を口にした人は、笑われていました。そんな世界が来るはずはないと思われていたのです。

 

ですが、現代は、ほとんどの国が、憲法をもって権力者を縛るルールが存在しているのです。企業や財閥という権力者を縛ることができていない不完全な憲法ですが、それも時間の問題です。

 

自由意思を与えながら、この世界を人間の自由意思を尊重して、天国のような世界にできるとしたら、それこそ最高なルートと言えるでしょう。

わたしたち人間をロボットのようにして、善しかできないようにするのは、簡単ですが、わたしたちには、自由意思がなく、喜びもない存在となります。実感することが出来ないのです。実感もできて、それでいて、未来は天国になるのなら、それこそ偉大な方法です。悪を味わうその直後は、最低な気分にさせられる時がありますが、それをその地点だけをみる狭い視野になっているからです。

 

悪のサイクルから抜け出すことは、その視点では無理です。悪の葉に斧をむける人は多いですが、それだけでは、解決にはなりません。悪の根に斧を向けなければ、悪は減らないのです。

 

科学や世の中の流れからみると、天国のような世界はそれほど遠くはないと思います。早ければ、100年後、遅くても1000年後には、そのような時代が来るように思えます。

 

丁度、今が世界を神様が造られてから、7000年目に入り、安息日である残り1000年は、今までの悪との戦いの最終的な決着の間近かもしれません。

 

戦争もまだ存在する闇の時代の真っただ中ではありますが、世界を支配している悪魔宗教の枠を超える時代に突入しているのですね。

 

彼らの中からも、多くのものが、悔い改めはじめ、神を畏れはじめています。太平洋戦争、911、311と彼らはやり過ぎました。中東戦争で蹂躙しすぎです。

 

情報が加速度的に広がっているだけではなく、本物の科学や学問が発展しはじめていること、悪をすることに嫌気がさしはじめていることが、新しい時代の拍車をかけているように思えます。マスメディアも本来はやりたい正義があっても、それが出来ずに苦しんでいます。あらゆる機関が悪魔宗教の枠では収まらなくなりはじめているのです。悪をすれば、心が痛むという価値観の人が、中国や朝鮮半島でさえも増え始めているのです。悪は、追い詰められているのですね。

 

もしかすれば、わたしたちが生きている時代の間に、かなり前進する可能性があるかもしれません。

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