思考の変化

処刑は正しいことなのか

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わたしは、処刑は正しくないと考えます。

ですが、処刑は正しいと考える方も当然います。わたしは、処刑は正しいと考える人たちの主義主張も正しく立派なものだと思います。

こういった問題は、どちらが正しいと言えるものではなく、そのケースによっても違ってきますし、時代によっても違ってくるはずです。

特に犯罪者に酷い目にあわされた被害者からすれば、処刑を望むのも当然と言えるのではないでしょうか。

 

それでも、わたしは処刑には反対です。

 

それは、現代だからです。

 

少し前の時代であれば、わたしも処刑は賛成ですが、それは昔の状況だから致し方無いと賛成したことでしょう。

 

今回は、処刑についてみていきましょう。

1、聖書は処刑を否定してはいない、(けれど)

聖書の中には、十字架刑などの処刑が書かれています。その処刑自体を否定することは、聖書は書かれていません。むしろ、肯定するようなことも書かれています。

 

ヨシュア10章36・27節

ヨシュアはまたイスラエルのすべての人を率いて、エグロンからヘブロンに進み上り、これを攻めて戦い、それを取って、それと、その王、およびそのすべての町々と、その中のすべての人を、つるぎをもって撃ち滅ぼし、ひとりも残さなかった。すべてエグロンにしたとおりであった。すなわち、それとその中のすべての人を、ことごとく滅ぼした。 

 

しかし、聖書には、「殺してはならない」という十戒の教えが書かれています。

出エジプト記20章13節

あなたは殺してはならない。

 

どうして、わたしは処刑を反対するのでしょうか。

それは、時代が違うからです。

 

ヨシュア記の時代は、紀元前の時代の話です。この時代には、バビロンにはルールというものがありましたが、ルールがない民族も多く、現代人が悪だと認識するものも、彼らからすれば正義だと認識してしまうものまで当然あったのです。

現代人は、どうして「正義」を求めたり、「平等」「平和」などを求めてしまうのかというと、わたしたち日本だけではなく、多くの国々では、わたしたちが生まれる前から憲法があり、その憲法には、「人権」を基準に、価値観が広がって、知らないうちに、わたしたちの脳にその基準が入り込んでいるので、悪を悪だと認識できて、否定できているのです。

 

もちろん、憲法だけではありません。日本の文化や宗教、あらゆる宗教の価値観を脳にいれていれば、悪を否定するという発想が脳に入り込むわけです。

 

そうでなければ、人は悪を悪だと認識すらできないようになります。

 

狼に育てられれば、狼のように振舞うようになり、例え人を襲ったとしても、それが悪だとは認識できないようになるのです。

 

憲法が世界に広がったのは、ほんの200年ほど前で、人権を理解して、まだわたしたち人間は日が浅いのですね。

 

中国では、聖書は禁止されています。80年ほど前には、毛沢東や蒋介石が、中国で争いあっていましたが、どちらの軍も、略奪強奪は当然のように正義として行われていたのです。

 

「人権」が理解できる現代と憲法さえなかった時代を同じくくりにして考えるのは、200年前の人に「スマホ」の話をしているようなものなのですね。

 

ましてや紀元前のヨシュアの時代は、どうなのかということです。

 

聖書は「殺してはならない」と書かれていますが、現代人なら、どうしてこんな当たり前のことを書くのだろうか?と思える人もいるかもしれません。この時代は、「殺してもいい」という正義と「殺してはならない」という正義が存在し、どちらも、それぞれの主張で成り立っていたのですね。

 

現代では、連続殺人犯が同じ主張をして、信じられない行為をしても、自分が正しく、他の人間が自分を誤魔化しているといいますが、この連続殺人犯の正義が、民族レベルで当然のように存在していた時代が、ヨシュアの時代だったのです。

 

アブラハムは、聖書では義人とされる人として、よくメッセージなどでも出てくる人物ですが、このアブラハムは、エジプトやカナンの地で、自分の嫁を妹だと半分嘘のようなことを述べました。

 

アブラハムの嫁は、腹違いの妹サラなので、妹であることも間違いではないのですが、そのために、美しいサラをカナン人の王やエジプト王は狙って問題になりかけたのです。

 

人には、愛や正義はありません。嘘をつくことは正義だと考える人間もいるのです。その嘘の正義を心から信じる人に、嘘はいけないという常識であたっても、無意味になるのです。そんな主張は、彼らには関係がなくなるからです。

 

人権もまた同じで、心から人権などないと考える人は、表向きはどうであっても、人権は無意味になるのです。

 

ですから、犯罪者なども存在しているのです。

 

現代では、人権は常識として、広く伝わっていて、それを当然だと考え、悪を悪だと認識できていますが、これは本当は、当然のことではないのですね。

 

200年以上前までは、権力者以外の人間は、権力者の所有物という「物」として扱われていました。扱われていたほうも、それが当然だと考え、釈迦のように否定するような人も少数だったのです。

 

同じ人間であっても、その環境や時代背景、文化や脳に入り来んだ情報によって、まったく価値観が変わり、同じ基準ではみることはできないということです。

 

 

20世紀の後半に、オウム真理教という宗教がありました。彼らは、サリンなどを地下鉄でもまきましたが、地下鉄事件以外にも、サリンを撒く恐ろしい行為をしました。彼らはそれを「ポア」といって悪い人間たちを聖絶するという正義で行ったのです。

 

普通に暮らしている人たちは悪いものに染まってしまっているので、ポアしろというものでした。

 

ですが、現代人は、彼らに処刑されるほどの悪なのでしょうか。「人権」を理解しているということは、「殺してはならない」ということを理解しているということです。現代人の多くは、その基準を満たしているのです。にも拘らず、オウム真理教は、人権を理解している人たちを殺めました。

 

ポアという処刑を悪用して、その行為を正当化したのです。

 

このような思想は、カルト宗教やテロリストなどが多く、一般的に昔から広まっている宗教は、このような考え方はしません。憲法という基準が世界中に固定されてから猶更、こういう考え方に疑念を抱けるほど、人間は、徳が上がってきているということです。

 

憲法がない時代では、仏教はこのような考え方の宗教は多く存在し、犯罪的なことを行ってきたので、神道系の人々から内心は、嫌われていました。明治にはいって、そういった仏教を一斉に日本人が押し寄せて、破壊していったほどです。人権がある宗教は精査されて残っているために、オウムのようなものにはなりにくいのですね。

 

時代が変わっても、現代において、実行している事態、おかしなことで、目には目を、歯には歯をという等価の処刑を聖書の時代は、行い処刑していたのです。

 

彼らが彼らの望んだ正義のゆえに、行ってきたことを等価として、彼らに目には目をと与えたのであって、それ以上の復讐をさせないための教えだったのです。

 

キリスト教は、目には目を、歯には歯をという教えをさらに前進させました。復讐の連鎖を止めるその教えをさらに消すためには、愛をもってゆるすことを教えたのです。

 

もちろん、悔い改めない人間をゆるすことは、愛ではありません。悔い改めている人に関しては、何度でもゆるし、負の連鎖を止めることを目指し、憲法へと辿りついたのです。

 

人は神の基で平等であるとして、平等が広まったのです。

 

それら人権が当たり前のように広まっている現代では、無神論者は深く考えなければ、道徳的な面があるのもそのためです。

 

知らないうちに、良い情報が脳にはいって正義などをどこかで信じたいと願うようにまで、徳が上がっているのです。

 

よく考えれば無神論には、何の正義も愛もないのですが、それでも信じたいと願うところや意固地になるのは、悪いことではありません。平和な時代の証拠でもあるということです。

 

 

これは日本だけの話ではありません。ヨーロッパやアメリカも、もちろんそうですし、あの中国でさえも、道徳的な考え方が、国際標準に変わり始めているのです。

 

人権の文化で育った人間は、知らないうちに、善悪の基準を持ち、悪を悪だと認識することが出来るようになります。犯罪者たちがすることを悪だと思えるのなら、それはすでに脳にその基準が入っている証拠なのです。

 

そうすると、犯罪者の正義は、広がらなくなり、彼らの主義主張は、否定されるようになるので、いのちに関わる問題が減少していくわけです。

 

もちろん、細かいことを言えば、問題は山積ですが、ゆっくりと良い方向へと変わってきていることは、間違いないのですね。

 

そして、世界中に、人権が広まっている現代では、処刑されるほどの思想を持つ人は、かなり少なくなりはじめているので、刑務所などで、人権などの情報を脳にいれて公正させようとすることも可能だということです。

 

マインドコントロールは、悪いことにつかえば、悲劇になりますが、良いことに使えば、公正への道となるのです。

洗脳とは>>

 

その結果、多くの国々では、処刑は無くなり始めています。日本はまだ処刑が存在していますが、多くの国々は、処刑制度を取りやめています。

 

憲法がない時代や人権が広く常識として広まっていなかった時代なら、処刑は、わたしも賛成ですが、多くの人間が、人権を理解して、平和に生きているのなら、限られた犯罪的な少人数の人間は、刑務所にいれて、正しい情報を脳に入れ続けるべきではないでしょうか。

 

 

とは言え、犯罪者などは、人権を無視した正義を持っているわけですから、信じられないことをして、被害者を出します。その被害者となった家族からすれば、ゆるすのは、とても難しいことで、同じように処刑しろという考えになるのは、否定できません。

 

処刑にしても、人道的な処刑へと現代は変わっています。歯には歯をでさえない、犯罪者に対しても、なるべく苦しませないような処刑へと変わっています。

 

酷い目にあわされた被害者からいえば、それもゆるせないと考える人も少なからずいることでしょう。

 

 

生きていれば、加害者をゆるせないとうい感情を持つこともできるからです。

ですが、いのちを無くした被害者は、どう考えるでしょうか。

 

被害者からすれば、大切な家族が、自分が死んだあとも、感情的に、復讐を望んで、苦しんで生きているところをみたら、それこそ悲しむのではないでしょうか。

 

二次被害、三次被害と負の連鎖が続いて、出したくもない嫌な言葉を家族が口から出して生きているのをみたら、悪は終わらず、続いていると悲しむでしょう。

 

大切なものを奪われた痛みを加害者にもどうにかして味あわせたいと考えても、彼らの価値観は、まったく別物です。それ自体が正義だと考え、正しいと心から考えているので、実行しているからです。

 

悪をすれば、悪が返ってきます。歴史をみてもそれは立証され、だからこそ憲法があるのです。

 

感情的に復讐を望めば、悪は増大し、終わりはありませんが、悪側に流されず、冷静に、人道的な処刑にせよ。処刑をしないにせよ。それを法律に基づいて、認めれば、そこで負の連鎖の動きにブレーキをかけることができるようになるのです。

 

また、加害者だけが悪いというものではありません。そのような加害者の正義も、彼らにそのような情報を脳に与えた社会や世の中の偶像的思想が悪いのです。

 

もし、環境が変われば、彼らも人権を理解した人間として人生を送れたかもしれないのです。

 

連鎖を止めなければ、第二第三の事件が生まれ兼ねないのですね。

 

 

 

 

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