思考の変化

豊かな考え方と欠乏した考え方

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人を一括りにして分けることは、それほど多くできることではありませんが、大きく分けて2種類に分けられることができます。

1つは、「ある」と考えて、分け与えることができる人と

「ない」と考えて、恐怖心から分け与えることが出来ない人です。

 

その状況やケースによっては、どちらが正しいわけでも、正しくないわけでもないのですが、大局的に見れば、前者の「ある」と考えるような豊かな思考が正しいということを人間の歴史では判断されています。

人権というものが憲法で定義づけられているのも、まさに前者です。

 

この考え方は、どのような違いがあるのでしょうか。

1、有神論と無神論

神を信じる人たち、何かしらの宗教を信じている人には、共通点があります。

それは、人を超えたもの、人には手出しできないものを「認める」という、へりくだった考え方です。

 

ひとりの人が出来ることは、限界があります。神を信じる有神論の人たちは、そこで神に委ねることができますが、無神論は、委ねる対象がないので、恐怖心が募ります。

 

キリスト教は、まさにこの考え方の人が多いです。

クリスチャンに共通している大きな特徴としては、「委ねる」ということができるところです。

 

神は「いる(ある)」と考えれば、与えることができますが、神は「いない(ない)」と考えれば、ないのだから、与えることはできません。

 

「ある」人は、あるのだから、与えることができますが、「ない」ひとは、ないのだから与えることは出来ないのですね。

 

神の存在を否定することは、現実をみれば、誰も否定できないのですが、現代の日本人の多くは、悪いマインドコントロールによって、学校宗教団体で、神はいないという嘘を教えられます。

全知全能の神が存在するという確実な証拠>>

「ない」という意識を強烈に植え込まれるわけです。

 

「ない」と心から信じる人は、恐怖心に悩まされるのは、当たり前ですね。

 

ほとんどの人は、「ある」と「ない」をバランス良く持ち合わせています。

これが一番良いものだと思いますが、どんなことに対しても、「ない」と考え、否定的になって恐怖を表してしまう人がいます。

それが大人だと思い込みますが、そうではありません。感情的に、肯定する人もいれば、感情的に否定してしまっている人がいて、何でも否定的に捕らえてしまう人は実は、精神がこどもで、感情的に恐怖に支配されて、否定的になってしまっているのです。

 

例えば、「愛ですよ」という教えに対して、それを頭から「感情論だ。甘えだ」などと考える人がいますが、実は、これは否定している人のほうが、感情論なのです。

 

事実が、愛であるから、「愛ですよ」と言っているだけで、事実が愛なのに、「愛じゃない」と現実逃避する人のほうが、偶像思想である空想を感情的に、信じ込み、否定的になってこどものように、意固地になるのです。

 

事実が、「正義や優しさ」であるのなら、「恥ずかしい」とか「大人だ」とか、そんなイメージは関係なく、「正義や優しさ」をたんたんと伝えるだけなのです。地球がまわっているのを「まわっている」と言っているのと変わらないのです。事実を無視して、反論するほうが、感情論なのですね。

 

感情論からなのか、事実からなのかは、別にしても、神を信じる有神論者は、「ある」という豊かな考え方に、若干、傾いている傾向があります。

ですから、耳を傾けることができ、ゆとりがある判断を選ぶことができます。

 

大きく、世界を変えた時代にも、共通点があります。

新しい時代へと乗り出したような時代は、多くの才能が導き出され、新たな発展を生み出してきました。

 

そういう時代では、豊かな考え方を持つ、何か才能を持っている人が選ばれます。

 

三国志の曹操孟徳や唐の李世民、徳川家康や織田信長、多くの優れた人材を集めることで、勢力を伸ばしていきました。

 

今でこそ、「人権」というもので、人と人には、差がそれほどなく、自由な権利が与えられています。むしろ、貴族や王族のほうが、自由がなく束縛されたような時代になっています。

 

すでに人権が確率された後の時代に、わたしたちは、生きているので、それが当たり前かのように思えますが、それも200ほどの歴史しかなく、それ以前は、限られた人間が上に存在し、それ以外の人間は、「所有物」として、考えられ人権は無かったのです。

 

その時代では、「人権」というもの、憲法などの考え方は、夢のまた夢の話で、権力者がわざわざ自分たちに、憲法という枷を付け加えることなど、するわけがないですし、そんなものが手に入るわけがないと考えられていたのです。

 

その時代では、人権は、笑い話のようなものだったのですね。

 

ですが、それが現代では、当たり前になっているのです。

 

その時代、誰が現代のように「人権」が当たり前のように認められるなど、考えられたでしょうか。

スマホがない時代に、誰がスマホを考えられるのでしょうか。

 

これほど、豊かに与えられ、権利も持てる時代であっても、まだ欠乏した考え方で、恐怖しているのは、無神論という嘘を脳に植え付けられていたり、お金システムを信じ込んでしまっていたりするからです。

 

実際には、与えられていても、与えられているという事実を認められずに、頭の中で苦しんでいるような状態で、生活してしまっているわけです。

 

現代は、悪魔宗教が、お金システムを構築して、起業家、多国籍企業として、国や王族・貴族の上に君臨しています。

絶大な権力を持っているのに、その者たちには、憲法が適応されないというシステムが今だに使われているのです。まだまだ、憲法は完璧ではないのですね。

 

悪魔宗教が、わざと「ない」という状況を作り出して、脳を汚染しているので、欠乏した考え方に染まってしまう人たちが、どんどん製造されていくわけです。

偶像思想を心から信じて、欠乏マインドに陥っている人が多くなれば、なるほど、世の中は、負の連鎖に傾いていくというわけです。

 

神道や仏教もそうですが、今残っている多くの宗教は、与える傾向が若干、強いものです。

 

日本人の根底にあるのは、神道の与えるもの、豊かな脳への良いマインドコントロールです。

 

与えることがもともと出来る日本人は、その文化から強烈に、成功してきました。

クリスチャンによって豊かに資本主義が発展してきましたが、日本人はそれ以上の結果を残し、今でも世界のトップをドイツとともに、実質は走っています。

 

そういう傾向があるにも関わらず、近代宗教の無神論などが、大量に脳に植え付けられているので、多くの矛盾が生じてしまっているのですね。

 

聖書には、「与えなさい。そうすれば、与えられる」という教えがあります。

 

足りないという欠乏した考え方ではなく、与えられているという豊かな考え方によって、他人に多くを与えて、資本主義を発展させてきたのです。

 

恐怖心によって、統制しようと試みたカトリックの国ほど、発展せず、神様から与えられた祝福を認めて、与え続けたことで、現代の多くの豊かさがあるのです。科学や学問の発展など、多くを与えてきたのは、この豊かな考え方があったからなのですね。

2、愛は素晴らしい

聖書を読むと、決して奇麗ごとではない書物だということが分かります。

神様は、完全な善なる方ですから、悪を許可することはっても、悪をゆるすことはできないので、多くの悪に、悪い出来事が起こることを許可されます。

 

悪をすれば、その悪が、帰って来るという法則をこの世に残されたのです。

 

悪の恐ろしいところは、悪を選んだ人だけではなく、善を選んだ人にも及び、動物やその他の生き物にも、及ぶところです。

一緒に、地球で暮らしているわけですから、同じところで暮らしているものたちも、関係ないとは言えないということです。

 

悪を選んだ人は、平和を破壊し、関わっていなかった人たちまで、無理やり関係者として、傷つけていくことで、善を選ぶ人も、悪を憎むようになり、悪をゆるさないという環境へと向かっていくことになるのです。

 

悪をやりすぎれば、神様も黙ってはいません。カトリックもそうだったように、行き過ぎた悪に対しては、神様は、あらゆる悪の波状を一次的に許可して、悪は、悪によって傷つき滅んでいきます。

 

神様だって否定的ではないかと思うかもしれませんが、それは違います。

 

大前提が、「愛」であるのです。

 

例えば、Aさんが、死ぬということを神様が、許可したとしましょう。

Aさんは、どうして、死ねるのでしょうか。

それは、生きているからです。

 

 

生きていない人は、死ぬこともできません。

先に生を与え、その生が、生きていけるだけの環境、「空気・水・地球」などありとあらゆる愛を与え続けてくださっているのです。

それでも、必要以上な悪をする者に対して、神様は、悪の波状が訪れることを許可されているというわけです。

 

90%以上の祝福と愛を与え続けて、10%の悪の波状が訪れることを許可されているのなら、数字的にいえば、それは善なのです。

 

逆に悪の波状がこないように、設定されていたとしたら、どうなるでしょうか。悪をどれだけやっても、祝福が来てしまう世の中だったとしたら・・・。悪をやめる必要性があるでしょうか。

 

ノアの大洪水前の時代の地球環境は、とても恵まれていました。現在の少し厳しい地球環境と同じではなかったのです。

人々は、巨人のように大きく、病気もせず、長寿で、美しい姿をして、存在できていました。

 

恐竜という巨大な生き物も、その環境では、生きていけるほどだったのです。

 

それほどの恵まれた環境を与えられていた人間は、どうなったでしょうか。

悪をしても、悪の波状が来ることをあまり実感できない世の中で、悪をしても、長寿で楽しめた時代は、滅びへと向かいました。

 

 

悪をすれば、悪が帰ってくるということが、若干分かりやすくなった今の時代は、4000年近く立ちますが、未だに滅びることなく、滅びへの畏れ抱きながら、なんとかギリギリのラインを保っているのですね。

 

聖書は、愛のために、人の間違いが多く書かれていますが、それは愛が大前提にあり、そして、愛が、大切だということを教えています。

 

感情論で、否定しやすい人は、こどもなどにも、愛をみせずに、育てようとしてしまいますが、愛を知っている人は、愛情を持って、こどもを育てることができます。叱るにしても、そこに愛があって叱るのと、恐怖心から叱るのでは、大きな違いがあるのです。

 

おぎママというタレントのような学校の先生がいますが、彼は、生徒から、一番優しい先生だと言われるといいます。逆に生とから、一番怖い先生だとも言われるというのです。愛情を持って怖い先生にもなっているということです。

 

愛があって言っているのと、愛を小さいものだと考えながら言っている者の言葉は、差があります。

皆さんも何となく、その違いが分かるのではないでしょうか。

 

 

何をするにしても、そこに愛がなければ、虚しいものになると聖書は、教えています。

 

愛は、とても優れたもので、前へ進む希望を生み出し、またゆるす心を与えます。憎しみや悪を破壊し、負の連鎖を止めることができるのです。

 

悪に対して、悪をしても、いつまでたっても、悪は消えません。

ですから、神様は、悪人にも雨を降らせ、愛を前提としたものを与え続けてくださっているのですね。

 

はじめて、殺人を犯したカインを神様は、守られました。守られた理由は、色々考えられますが、その1つは、愛によるものだったのです。

 

わたしたち、人間は、不完全で、すぐに間違い、悪を選択してしまいます。どうしても、やめられない悪というのも、個人で違っていたりもする場合もあるでしょう。

 

確かに存在するダメなところばかりをクローズアップして、見ていれば、悪だけにしか目を向けられなくなります。

ですが、何歩か下がって、全体もみるようにしてください。悪いところは、確かに存在していても、それは数パーセントにしかすぎません。多くは善いところで満ちているのです。

どんな犯罪者であっても、その姿は、わたしたちと同じ、神様の設計された似た体で、腕は2本。足は2本。目は2つばかりです。

イエス様のその姿と似た存在なのです。

 

一部は、悪へと傾き、偶像思想を心から信じ込んでいるから、破壊衝動にかられるだけで、本来は、そのようなものではないのですね。

 

わざわざそのような人に近づきなさいと言っているのではありません。悪から離れなさいと聖書は教えています。

しかし、悪を消すことができるのは、愛であることを忘れてはいけないということです。

何かを注意するにしても、叱るにしても、愛を前提いして行うべきです。

 

そして、事実がそうであるように、希望を持ちましょう。

夢も希望もない民は、滅びると聖書は教えています。

 

希望がまったくないように思えるのは、偶像思想にそまっているからです。事実は、希望であり、そして、愛によって、多くの愛や豊かさを増し加えることができるようになるのです。

 

どれだけ人の人口が増えたとしても、地球は宇宙の中のほんの小さな星であり、エネルギーで満ちた世界の砂粒のようなものです。その地球に住み着く人間は、さらに小さいものなのです。それらがどれだけ増えたとしても、世界のエネルギーを消すことが本当に出来ると思うでしょうか。

 

この世界は、ほとんど無限のエネルギーで満ちているのです。

与えるのは、当たり前で、与えないほうが、どうかしているほどなのです。

 

「一杯あるから、もらってくれない?お願い。ありすぎるからもらって!」というほどなのですね。

 

それを一部の人間が、お金システムや小さい枠の中で、ゲームのようにシステム化して、小さくまとめあげているので、「ないない」と思わされているだけなのです。

 

神様は、そんなに小さいものではないのです。

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