思考の変化

罪の赦し

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罪はどのようにして贖われるのか。赦されるのかという考え方は、キリスト教が特に強調する教えですが、決してキリスト教だけの概念ではありません。

 

世界の共通点の不思議について、何度か書きましたが、その不思議の1つは、この罪に対する贖いです。

 

罪をしてしまったことへの後悔や罪悪感、なぜ人はこのように罪に対して、反応してしまうのでしょうか。

これは大昔から沢山の宗教や哲学、あらゆる民族が考えてきた難問でした。

 

なぜ、罪は存在し、また、その罪は、赦されるのでしょうか。

1、世界中に広がる罪の概念

罪に対する概念があることは、実は不思議なことです。

例えば、刑務所には、犯罪者がいて、罪悪感を抱かずに、犯罪をしてしまう人たちがいるように、行っていることは、罪なのだと認識しないということが出来るからです。出来るのに、世界中に罪に対する罪悪感は広がり、組織を安定させています。

 

どんな組織も、善を利用しなければ、成り立ちません。すべて、悪を行って、組織が安定ことはないのです。

 

人の脳は、別々に独立した認識を持っているので、それら違う脳が、組織として、一緒にやっていこうとすれば、ルールという共通認識が必要になります。

そのルールを組織全体で、固定させて皆に守らせるのが、法律です。

 

これらルールを破る者は、組織を崩壊させる者であり、その組織ではやっていけないということになります。そうすると、そのルールに従わなければという考え方が定着して、罪悪感が自然と生まれていきます。

 

ですが、組織自体が、悪を容認するのが、当たり前だとしていたとしたら、どうなるでしょうか。

 

ひと昔前まで、日本では、体を鍛えること、運動する時は、「水を飲んではいけない」という認識、ルールがありました。

今では、これは非常識であるとして、運動するときは、十分な水分をとってするようになっていますが、その時代では、精神論が優先され、水分がなければ、危険という事実が無視されていたのです。

それら、水を飲まずに、苦しむことにも打ち勝つという精神論のようなものを、堂々と学校などでも伝えられ、それらの罪悪感は薄れていたのです。

 

生き物は、水を飲まなければ死んでしまうという事実は、昔から知っていたにも拘わらず、それらを無視して、昔の社会は、それが正しいとされていて、こどもにさえも、強要していたのです。

 

社会が認めていれば、悪いことであっても、人は、罪悪感を薄れさせて、それらを悪いと感じることなく、実行できてしまうということです。

 

イスラエル人がカナン人と戦った理由も、白人が世界中の人々を奴隷にしたのも、まさにそこです。

 

生活しているコミュニティ、組織団体で、悪を容認していれば、それを悪だと人は認識できずに、実行できてしまうのです。

 

逆に、それが悪であっても、生活している組織団体が、それが正義だとしていたら、その悪を行わないと、罪悪感が生まれてしまうというほど、人間には、正義もなければ、愛もない存在なのですね。

 

わたしたち人間は、高性能なロボットのようだということが、このことからも分かるのですね。

ロボットは、人から打ち込まれたプログラムを実行するだけです。そこには、善悪は関係していません。プログラムでそう打ち込まれているから、そのように動いているだけなのです。

 

わたしたち日本人は、日本語という言葉のプログラムを脳に植え込まれています。日本の文化というプログラムも植え込まれています。

生まれた時から脳に、言葉などのプログラムを植え込まれているから、それを実行しているのです。

 

東大は、本当に正しいことを教えているのか?日本の社会は、本当に正しいのか?NHKの情報は、本当に正しいのか?と再度、脳に植え込まれたプログラムを見なおさなければ、本当は、罪を感じずに、悪を行ってしまっている可能性があるのですね。

 

罪に対する概念自体が、悪にすり替えられている場合があるので、注意が必要なのです。

 

このように、誰かがルールを打ち出し、人々の脳に打ち込むからこそ、罪悪感が生まれていくのです。

狼に育てられた子は、罪悪感というものがなく、狼のやっていることをそのまま実行しているだけで、善悪などの認識もほとんどないわけですね。

 

では、世界に善悪という概念があるのは、なぜなのだろうと不思議になります。

 

世界の宗教には、多くの共通点がありますが、その1つは、「生贄」というものです。

自分たちが、「罪」というものを犯してしまうと、神様に身代わりとして、「生贄」を捧げて、罪をゆるしてもらおうとしてきました。これは聖書だけではなく、あらゆる宗教の共通した概念でした。

 

人間よりも上の存在、「神様」に感謝のお供え物を捧げるのは、分かります。

ですが、罪の概念を持って、さらに罪をゆるされる方法として、「生贄」という方法を使うという概念が、世界中で共通しているのは、不思議ですね。

 

聖書を知らない民族であっても、結局、聖書に書かれている内容の概念を継承して、文化として、代々伝えられ、それを実行してしまっているのです。

 

それをまた歪曲して、動物の生贄ではなく、人間の生贄にしたものもありますが、それがあるのも、罪の赦しを動物によって身代わりにするという概念があってこそです。

 

人は、知らないうちに、善のルールが脳にプログラムされているのです。

 

日本語やフランス語といったように、言葉ですら違うのに、共通した善のルールが世界中に広げられ、その割合は、個々によって違うのですが、それでも、確実にそれらの概念を持っているのです。

 

これらを説明できているのは、聖書だけです。

 

聖書が、他の神話などと違うところは、明確にあらゆる現象を書き表してしまっていることです。こんなことをしてしまえば、逃げ道がありません。神話などは、逃げ道を作るように、抽象的な表現をして、誤魔化せるわけですが、聖書は、それが出来ないのです。あまりにも分かりやすく、明確に書かれ過ぎているのです。

 

それでいて、未来の時代のわたしたちの科学や学問で証明された事実と見比べると、一致してしまっているという恐ろしい書物。それが聖書です。

 

進化論という学問や科学にみせかけた宗教とはまったく違い、事実と一致してしまっているのが聖書です。この聖書は、絶対に人には書けません。

 

その聖書には、世界中の宗教が、なぜ「生贄」という方法を使い、罪に対する赦しという概念を持ているのかまで、説明が書かれているのです。

 

最初の人、アダムは、神様であるイエスキリストから言葉などによって善のプログラムだけが打ち込まれました。善しか知らないので、善を行うことしかできない選択できないロボットのようでした。

 

こどもが、大人よりも、選択できる数が少ないように、この時のアダムも、選択できる数が、制限されていたのですね。

 

知らないことは、発明していくしかないので、かなり難易度が高いのです。

 

そこに、悪魔が蛇として近づき、悪のプログラムを人の脳にいれたことで、人には、大きく分けて、2つの選択が出来るようになりました。

 

これが世界中に広がっている善悪の概念のはじまりだと、聖書は、教えています。

 

そして、人は、悪を選ぶという選択をしてしまったことで、罪がこの世に生まれました。

霊的な罪、悪魔という存在はいましたが、罪というものが、無かった世界に、罪が具現化して、世に現れた瞬間でした。

 

人は、裸のまま生活していたのですが、罪を生み出したその身は、裸であることへの恥ずかしさに気づかせ、体を隠すようになりました。

 

そこで、神様は、動物のいのちを取り、その動物の毛で、毛皮の服を人に与えました。

 

人は、その時から、罪をしてしまった時は、動物を身代わりにして、神様から罪をゆるしてもらうように、行い続けたと聖書には、書かれています。

 

世界中にある善悪の概念、そして、罪の概念と生贄の概念は、そこから生まれ、人の脳に打ち込まれたと聖書は表しているのです。

 

 

これら世界中にある概念の理由を明確に教えているのは、聖書だけです。

 

仏教などは、もともと学問ですから、分からないことは、考えても無駄となるのですが、聖書は、人間には、出せるはずのない答えを多く書き表しているのです。

 

そして、それが不思議と現実と一致しているのです。例えば、現代人だから、世界の人間は、白・黒・茶という3種類とその中間色だけだということは、分かりますが、それはほんの200年で分かったことです。なのに、何千年も前から聖書は、人は、セム・ハム・ヤペテのそれぞれの妻の色に分かれていったことが、書かれているのです。

 

どうして、人が3種類に分かれていることが書けるのでしょうか。

 

土から生まれたアダムは、茶色。骨から生まれたエバは、白。そして、カインによってしるしが与えられ、3種類になったと考えられます。

 

なぜ、茶色、アジア人の色が、割合が多いことを書けるのでしょうか。

 

このような今の時代だから分かっていることが多く聖書には書かれているわけですが、その1つが、罪の赦しに対する概念の理由です。

 

そして、他の宗教には、お手上げである罪の赦しについても、聖書は、明確に教え続けているのです。

 

 

 

2、罪の赦し

罪のはじまり、原因が分からなければ、当然、罪の解決も導き出せません。そして、さらに、世界の現実と一致していなければ、それらは人の空想であるとしか言えません。

 

どこかの誰かが、適当な呪文を唱えれば、救われると言ったとしても、それがなんの根拠になるでしょうか。

 

ドラえもんが現実にいると言っているのと変わりません。

 

キリスト教は、聖書という固定されたもの、また、古くからあったユダヤ教やイスラエル人たちの文化などがその正当性を証明していました。聖書と一致しない罪の赦しには、正当性があるとは言えないのですね。

 

今は主張していませんが、カトリックは、聖書には書かれていない免罪符というお札による救いを人々に広めて、私利私欲に走りました。

これらが嘘であることも、固定された聖書によって明らかにされたのです。

 

お金を出して救われるとは、どこにも聖書には書いていません。

 

お金というものは、神様が造ったものではありません。流通をスムーズに行うために、人が工夫して生み出した架空のルールがお金であって、それによって人の罪が許されることもなければ、死後の階級をあげるわけでもないのです。

 

釈迦は、学者だったので、天国の存在は、あるのか、ないのか分からないという見解を述べました。大乗仏教の多くが、釈迦の教えとは180度違う教えになっているのは、残念なことです。

 

本来、仏教は、人間の枠から出ないものです。ですから、仏教には、本当の救いはないのです。

 

人には、分かるはずもないことさえも、明確に書き記し、現代だからこそ分かって正しいと精査できることが多い、聖書は、人間の枠を超えたものです。

分からないことは、分からないというのは、釈迦のような立派な学者ですが、そこに救いに至るものではないということです。天国の有無を述べなかった釈迦が救いを述べるわけもないのです。

 

その時代のご都合主義で、仏教は、あらゆる考え方を付け足してきました。新しいものを取り入れては、都合よく利用した思想が、生まれていったので、釈迦の教えと乖離してしまてちるのです。

 

何でもありの空想小説のような宗教になってしまっているというわけです。

 

大乗仏教に影響をもたらしたのは、キリスト教の異端の教えだったのは、仏教のひとたちでさえ認めているのですが、人の枠を超えているキリスト教に、何とか仏教は、人の力で、追いつこうとして、あらゆることをしてきたのですが、当然、人を超えることは人には、出来ないので、偶像思想だらけになってしまっているのです。

 

子は、親の教えによって脳にプログラムされていくように、その親もまた、その親から脳にプログラムされていき、教えは、継承されていきます。

聖書は、その人とのつながりが、明確に書かれています。家系図や種族事の流れが書かれているような宗教は、聖書以外には、ほとんどありません。

1世代間での出来事は書かれていたとしても、何十、何百といった世代をまたにかけて、書かれているものはないのです。

 

しかも、ユダヤ教というイスラエル人の存在、その文化が実際に日本人として、行われ続けている不思議は、聖書を証明していると言える1つでしょう。

 

ユダヤ教がなければ、もちろん、キリスト教もありません。救いの土台となったユダヤ教とその教えが書かれた旧約聖書があって救いの正当性が今でも伝え続けられているのです。

 

なぜ、人は、動物を生贄にして、罪を贖おうとしてきたのか。なぜ、神様は、それらを律法によって人々に教え続けたのか。イエスキリストが十字架刑で死なれるまで、分からない謎だったのです。

 

一人の人、アダムによってすべての子孫、すべての人間は、原罪を受け継ぎました。日本人が黒髪や黒目を受け継ぐように、親から罪を受け継いだのです。

釈迦のような人物であっても、その嵯峨からは抜け出せません。

 

そして、そのアダムは、神様の似姿によって造られました。イエスキリストが、アダムの雛形だったのです。

アダムによってすべての人に罪がもたらされたのなら、アダムよりも前に存在し、アダムの姿、霊的なものすべてに渡って、存在した本来あるべき状態である罪のないイエス様が、罪あるわたしたち人間のために、身代わりとなって、まるで動物たちの生贄のように、十字架刑にかかってくださったのです。

 

わたしたちは、その神様であるイエス様の一方的な救いを受け取るのか、それとも跳ね除けるかの選択ができますが、本当の救いに至る道は、イエス様以外には、証明されていないのです。

 

ただの思い込み、空想でならいくらでも、言えても、実際に歴史として存在し、文化として伝えられていたもの、世界に広がっている概念や人の罪や善悪の概念を網羅して、救いに至っているのは、イエスキリストの救い以外には、ないのですね。

 

世界中に女神が救い主を生むという教えは広がっていました。アダムとエバは、天国であったエデンから追放される時、神様から預言をもらっていました。女の子孫が、悪魔の頭を踏み砕き、またエデンへと戻してくれるというものでした。

 

エバたちは、自分たちの子が、救い主だと思ったと思いますが、そうではなかったことに気づかされ、自分たちから生まれた娘たちが、さらに子を産んで、誰が救い主となる子なのかを必死で探したことでしょう。

 

それが全世界に広がり、女神崇拝などで伝承され続けたのです。

 

それらの答えが、イエスキリストでした。

 

処女から救い主が生まれるという伝承は、決して聖書だけのものではなかったのです。

 

毘沙門天も、頭から子を産むという伝承がありますが、そのように伝承は、形をかえて、世界中の共通認識として、言語を超えて、伝えられてきたのですね。

 

 

ローマ帝国は、世界中の宗教や学問、あらゆる情報が、集まる場所でした。あらゆる思想が論議され、発展していたところだったのです。

世界中の教えを持ったローマの人々や学者は、人を超えた論理を持つ聖書やイエスキリストを認めざる負えなかったのです。

迫害されていたキリスト教であったのに、それでも、圧倒的な論理と、世界を説明してしまてちる事実は、本当の神と本当の救いなのだと認められ、多神教が国教であったのに、キリスト教が国教となってしまうほどにまで、受け入れられたのですね。

 

争いや犯罪を劇的に減少させていってしまうキリスト教は、王族・貴族の上に存在するようになり、治安をもたらしたのです。

 

それまでは、言葉も違えば、種族も違い、文化も違えば、善悪の価値観も違ったので、嘘や犯罪ですら正義とするような価値観が大量になったところに、キリスト教という価値観を固定させた教えが広がることで、反乱や戦争も激減したのです。

 

現代でも、戦争はあります。ですが、圧倒的に昔よりも戦争が少ないのは、人権などが広まっているからです。

バラバラであれば、それぞれがご都合主義で、争い続けてしまいます。日本のように海という境界線が2000年以上も前から当然のようにある国なら多神教も成り立ちますが、大陸は、そんなことでは、成り立たなかったのです。

 

善悪さえも崩壊したようなそれぞれの価値観の文化や教えがあっただけに、争いが多く、帝国は、それらの反乱や戦争を抑え込むために、疲弊し続けていたのですが、キリスト教によって平和の概念が固定されて、反乱や戦争が激減して、安定したのです。

 

今でもその恩恵を認められているので、カトリックは存続し続けているのですね。

 

世界の多神教は、本当に恐ろしいものなのです。聖書の教えから生まれた多神教的な神道と一緒にしてはいけません。道徳がベースにあるような神道とは、まったく違うものです。

 

平和や安全、愛などの日本の文化とは違い、破壊や恐怖、まやかしや呪いといった偽物の神々が存在し、それらは正義として、教えられていたのです。

日本も、2600年ほど前から、イスラエル人が、日本列島にきて、邪馬台国などの国や大和朝廷などの価値観が固定される前は、先住民によって、この地は、荒らされていたのです。

 

白人は、殺さずに奴隷として、温和な対策をしましたが、日本人であるイスラエル人は、奴隷にすらせず、滅ぼしました。

そのおかげで、聖書の平和的な思想が、日本列島に当然のように広がり、大陸のような恐ろしい歴史が少なかったのです。日本にも、恐ろしい歴史がありますが、それはカナン人の末裔の藤原家などによって多くが仕向けられ、造られた悲劇でした。

 

大陸世界は、現代人が絶句するようなおぞましい歴史が、当然のようにあふれかえっていたのです。

 

現代の平和がベースにある価値観と同じように考えると、日本のように民族を滅ぼしつくすことは、悪のように思えるかもしれませんが、その時代では、そうせざる負えなかったということです。そのおかげで、日本は、比較的平和で、嘘や悪をよく思わない民族性が、根強く残されているのです。

 

江戸時代に宣教師としてやってきた白人は、「イエスキリストが沢山いる」と書物に書き残した。日本人の平和な国民性は、驚かれるものだったのですね。

 

そして、その日本は、イエスキリストの救いを証明するための、文化が大量に残されています。ヨシュアが街を契約の箱をかついでまわった伝承も文化として、日本は、毎年のようにお神輿をかついで街を守り、悪を追い出すように願い続けるのです。

 

言葉によって平和を脳にプログラムする方法もありますが、文化によって、感覚で、平和のプログラムを脳に伝える方法もあり、日本は特にその文化によって平和を伝え続けた国だったのです。

残念ながら、今はその傾向が薄れて、言葉によるプログラムが多くなってしまっている上に、嘘に根付いた進化論のようなプログラムを脳にいれられているので、さまざまな価値観によって、右に流され、左に流され、翻弄され続けているのです。

 

これだけ平和で、これだけ物や娯楽を手に入れていても、幸せだと感じている人が少ないのは、脳が汚染されているからなのですね。

 

聖書は、イエスキリストに集約されているとよう言われますが、実は、この世界も、イエスキリストに集約されて、存在しているとわたしは思います。

 

そして、そのイエスキリストによってでしか、本当の救いはなく、きちんと順序だって、論理的な情報で汚染された脳を洗い流さなければ、例え、救いを信じていたも、不安に襲われたり、明確な確信にはならないのですね。

 

全く脳が、汚染されていない人など、現代ではいないのではないでしょうか。ですから、日々、情報を精査していきたいですね。

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