思考の変化

イエスキリストは神なのか、それとも人なのか

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イエスキリストは、なぜ神だと言われているのかについて、聖書を信じていない方たちは、疑問を抱くことでしょう。

なぜ人間なのに、神だということになるのか。

 

ブッタは、哲学者であり、学者でした。

宗教的なことを否定するわけでもなかったですが、いきすぎた宗教には注意するように説くことが多かったのです。

つまり、ブッタは人間です。

 

イエスキリストも、人間なのか、それとも神なのかについて議論をされることがあったのですが、結局、神としか言えない。

人間には不可能だという結論に至ります。

 

どうして、イエスキリストは、神だと言えるのでしょうか。

また、神なのなら、イエスキリストは人であると主張する人たちは、なぜいるのでしょうか。

1、実在した人間で神となったイエスキリスト

歴史的に実在したことが間違いない人物といえば、イエスキリストです。

イエスキリストは、実在したのか>>

 

イエスキリストが実在しなかったなどという歴史学者がいたらその学者は、エセ学者です。

イエスキリストが、神なのか、神ではないのかは、分からないにしても、イエスキリストという人物が、過去に実在し、十字架刑にかけられたことは、事実なのです。

 

この世に、実在した人間で、さらに神とされている人は、世界中どこを探しても、なかなか見つかりません。

古事記には、イザナミやイザナギなどの神が書かれています。

ギリシャ神話やエジプト神話、メソポタミアなどでも、王が、太陽神的な神として像を建て、神であると宣言したこともありますが、彼らが実際に実在したのかは、分かりません。

 

ブッタがいるじゃないかと思うかもしれませんが、ブッタが神と言われるようになったのは、ブッタの死後です。

ブッタは、自分は人間であるとして、弟子が、偶像をつくることなどを禁止させました。

あくまで、論理的な思考を広める存在として、ブッタは、人々に、偶像思想であるまやかしを打ち砕くかのように、存在していたのです。

阿弥陀如来なども、いつしか女性化して、ブッタは男だったのに、女のようになってしまっているブッタを無視したとんでもない教えに変えられていきました。

 

いつしか仏教は、キリスト教の異端的な宗教に呑み込まれていったのです。

 

イエスキリストも、神だといわれはじめたのは、イエスキリストの死後からです。

ですが、ブッタと大きく違うのは、イエスキリストは、自分が神であることを否定することはありませんでした。

もちろん、ブッタと同じように、自分の偶像を作らせるなどはしません。

 

そんなことをすれば、偶像を否定していたユダヤ教徒に、殺されてしまうという時代でもあったからですが、それ以前に、イエスキリストはユダヤ教徒だからです。

 

偶像とは何なのか>>

 

イエスキリストの死後に、イエスキリストが神であるという思想がではじめたことで、話しを歪曲させていると主張する人がいます。

聖書の福音書を読んでも、イエスキリストは、ハッキリとは、ご自分が神であると宣言されてはいないからです。

 

イエスキリストを神格化した弟子たちが、イエスキリストの死後に、過大評価して、そのような教えになってしまったと主張するわけですね。

 

果たしてこれは本当のことでしょうか。

 

ですが、これらの主張が、歪曲した言いがかりだということも、よく考えればわかるのです。

 

原始キリスト教の時代は、キリスト教徒は、ユダヤ教からも、ローマ帝国からも激しく弾圧されていました。

 

これを否定する学者も、それほど多くはありません。

 

イエスキリストが十字架刑にかけられたことからも、分かるように、ユダヤ教の教えに反したことをすれば、危険がともなう時代だったことは、多くの学者も認めているところです。

 

ユダヤ教の教えでは、神とは、人間ではありません。

この世界のすべてを創られた偉大な存在で、自然そのもの、宇宙そのものが、神であるという漠然とした神概念があったのです。

 

ユダヤ人であり、イスラエル人たちが住んでいた土地は、ローマ帝国の支配下にあったのですが、ローマは多神教で、あらゆる文化や宗教は、その土地の人々のアイディンティティとして、認められていました。

 

寛容さを表すことで、ローマ帝国に反旗をひるがえさないように、ローマは政治的に宗教を利用していたのです。

 

ですから、ローマ帝国も、ユダヤ教徒に敵対した態度を簡単には取ることができませんでした。

なるべくユダヤ教徒と仲良くして、平穏にイスラエルの土地を統治したかったのです。

 

ですから、原始キリスト教徒たちをユダヤ教徒たちと共に、迫害しました。

 

では、この時代は意見を踏まえて、考えてみましょう。

 

もし、イエスキリストが、そんな時代に、堂々と「自分は神である」とはじめから宣言していたとしたら、どうなったでしょうか。

 

イエスキリストに洗礼をほどこしたバプテスマのヨハネは、堂々と宣言をして、ユダヤ教徒たちに殺されました。

彼はユダヤ教徒で、とても有名な預言者だとして、人々から慕われていたのですが、そんな彼も殺されたのです。

 

イエス様は、旅を続けますが、バプテスマのヨハネように、激しくはユダヤ教を批判することをせず、当たり前のことを当たり前のように、説いて、旅をしながら、弟子たちを増やしていきました。

 

神であると宣言していたら、イエス様も、すぐに殺されていたはずです。

 

イエスキリストの死後もまた同じです。

 

原始キリスト教徒たちが、「イエスキリストは神だ!!」と堂々と宣言できた時代ではなかったのです。

キリスト教徒であるだけで、命を狙われていたような時代に、そのような宣言をすれば、「処刑してください」と言っているようなものだからです。

 

その時代背景を無視して、イエスキリストの死後、弟子たちが勝手に、イエスキリストを神としはじめたと主張しているわけです。

 

原始キリスト教徒たちは、イエスキリストが神であることを信じていました。

ですが、大きな声では、イエスキリストが神であることを宣言できませんでしたし、新約聖書にも、堂々と書けるわけもなかったのです。

新約聖書という固定された書物を書くことは、命がけでした。

 

書くだけでも命がけですから、原始キリスト教徒たちは、裏付けをきちんともって、証人たちの証言をもとに福音書を作り上げていったのです。

 

イエスキリストが神であるとやっと堂々と宣言できるようになったのは、ローマ市民から多くの信者がではじめて、キリスト教が浸透してきてからなのです。

 

それまでは、イエスキリストが、神であるという確証があっても、神であるとは、言えない状況の中、戦い続けてきたのです。

 

では、イエスキリストは、なぜ神だと確証できるのでしょうか。

 

聖書を信じる人は知っていることですが、知らない人は、まったく意味が分からないと思いますので、なるべく分かるように説明していきましょう。

2、人間には、出来ない不可能なことを行った

ブッタは、学者ですから、世の中の法則をみつけて、論理的に人々に教えを広めることができました。

これは多くの哲学者などもいることから、人間であれば、そこに至ることは不可能ではありません。

 

世の中にすでに存在している現象を読み解くだけだからです。

 

ですが、イエスキリストは、それを超えることを行ってしまった実在した人物なのです。

 

ブッタとイエスキリストの違いは、ブッタは人間にならできることをしましたが、イエスキリストは、誰にもマネできないことを実現したことなのです。

 

 

イエスキリストが生まれる前から、ユダヤ教という宗教が、イエスキリストが生まれたイスラエルという場所には、存在していました。

 

カナンの地とも呼ばれ、パレスチナとも呼ばれていた土地です。

 

人間が作り出した宗教の中には、多くの書物や教えが書かれていますが、未来を予言するようなことが書かれているものは、それほど多くはありません。

 

ユダヤ教徒が信じている旧約聖書には、古来より、未来を預言するような内容が多岐にわたって書かれているのが、聖書が奥深いといわれる由縁の1つでもあります。

 

しかも、聖書の預言は、予言とは書きません。

 

預言とかかれているのは、本当の神様が人間に与えた啓示で、ユダヤ教の設立にも大きく貢献したのは、この預言があったからです。

ユダヤ教は大昔から存在していたように思えるかもしれませんが、ユダヤ教が設立されたのは、紀元前6・7世紀頃です。

 

それまで、イスラエル人という民族は、多神教も沢山あり、一神教の教えもされていたのです。

 

丁度、今の神道と似ています。

 

伊勢系の一神教寄りの神道と出雲系の多神教寄りの神道があり、多神教のほうが主流になっていたのです。

 

ですが、そのイスラエル人たちの目を覚まさせる出来事が起こりました。

 

それが、バビロン捕囚です。

 

絶滅の危機を味わうほどの苦難にイスラエル人が味わいはじめると、イスラエル人たちは、一神教に驚愕の事実を発見するのです。

それは、一神教が大切にしていた旧約聖書の中に、バビロン捕囚のことが書かれていたのです。

 

未来さえも、見通している聖書からこれこそが、本当の神であると確信したイスラエル人は、モーセからの一神教を復古させて、作り上げたのが、ユダヤ教だったのです。

 

このように、旧約聖書には、いくつかの預言というものが書かれているのが1つの特長なのです。

 

もちろん、ブッタや孔子、ソクラテスなどのような哲学的なことや人の教え、倫理や道徳なども教えてはいるのですが、さらに預言というものが、書かれた不思議な書物だということです。

 

そして、イエスキリストは、ユダヤ教徒が大切にしていた旧約聖書の預言をことごとく実現していったのです。

 

聖書用語では、成就したと言います。

 

たかが、1つや2つ、聖書に書かれた預言が実現したというのは、ただの言いがかりで、そんなもの誰にでも当てはめられると聖書を知らない人は思うかもしれませんが、そうではありません。

 

イエスキリストに関する預言は、1つは2つではないのです。

 

その数、300以上。

 

長い文章から短い文章までイエスキリストに関する預言を組み合わせれば、ものすごく限定されたひとりの救世主の人生になってしまうのです。

 

そして、イエスキリストが驚くべきことは、これらすべてを成就させたことにあるのです。

 

例えば、救世主が、ジャンプしたという救世主本人が、出来ることなら、聖書を読んで知っていれば、誰にでもできますね。

旧約聖書に書かれた預言は、救世主本人だけの預言ではなく、その時代の他の人も含めた預言になります。

 

まずは、ダビデの家系から生まれるという預言もあり、これでも限定されます。

 

人間は、自分がどの家系に生まれるのかを決定できません。

 

イエスキリストは、これにも当てはまっているのです。

 

聖書には、アダムから永遠と続くかのように、家系図がかかれた不思議な書物で、その家系図から年代を割り出せる歴史書としても使えるものです。

 

それが不思議とイエスキリストを神であるという証明にもなっているのです。

 

このように、例え旧約聖書を読んでいたとしても、その預言を成就させるには、人間の力では、不可能なことが大量にそのイエスキリストの預言には、含まれているのに、それらをすべて成就させてしまったのです。

 

イエスキリストの預言>>

 

 

言い尽くせば、キリがないほど人間には、不可能だということが明らかになっていくのです。

 

 

ローマは、世界中の文化や学問、哲学や宗教が集まり、それらを研究していた場所でした。

ローマ市民は、論理的な風潮があったのです。

 

そして、多神教でした。

 

なのに、なぜ迫害されて、ぽっと出のような原始キリスト教が、急激に広まったのでしょうか。

 

それは、世界中の宗教にはない絶対的な論理性が、聖書に大量に詰まっていたからです。

 

世界のことを聖書は説明してしまっていたのです。

 

 

処女が救世主を生むという予言は、聖書にもありましたが、決して、聖書だけに留まることではありません。

実は、女性が救世主を生むという予言は、世界中に存在していたのです。

すでに、ローマ市民は、そのような予言を知っていたのですが、それが実在した人間として、結果を残したのは、イエスキリストだけだったのです。

 

処女マリアから生まれたイエスキリストです。

 

それだけではありません。聖書には、この世が創られたことが事細かく書かれ、古事記やあらゆる宗教のように曖昧な書き方ではなく、分かるように明確に書かれているのです。

 

どこかのとてもつなく頭のいい小説家、思想家が、突然書いたものでもありません。

 

古くからカナンの地で、住んでいたイスラエル人が、心から信仰していた文化的にも、認められた書物です。

 

そのユダヤ人でさえも、聖書を一旦は、捨てて多神教になっていたほどですから、ユダヤ人たちが画策して作り出したというわけでもない。

 

なのに、圧倒的な論理性があり、世界中の宗教を説明できてしまっているこの聖書は、人間には、書くことができないと理解し、人間を超えた書物である聖書とその聖書の預言通りに人生を歩んでしまった実在したイエスキリストによってまた、聖書は証明されてしまったのです。

 

イエスキリストというイスラエル人の男性が、十字架刑にかけられたことは、事実でした。

 

そして、そのイエスキリストが、人生で歩んだ行動は、旧約聖書に大量の預言として、イエスキリストの生まれる前から書かれていたのです。

 

だからこそ、論理的だったローマ市民は、聖書と聖書の神を信じるようになったのですね。

 

 

政治的に宗教を利用できるとして多神教を広めていたローマ帝国は、なぜ融通が効かなくなるような一神教のキリスト教を国教にしたのでしょうか。

それは、論理的だったローマ市民から大量の信者が確信を持って信仰するようになったからです。

 

キリスト教は、政治目的として利用されるまでは、その信仰心が確証を持って強められていたことは、間違いがないのです。

 

皆さんならどうでしょうか。

 

キリスト教という迫害され、まるでオウム真理教のように世間では、紛い物の宗教だとレッテルを貼られていた時代、ローマ市民は、殺されることはなくても、カナンの地やイスラエル人のキリスト教徒たちは、殺されている時代に、わざわざ災いになるかもしれない宗教を意味もなく信じられると思うでしょうか。

 

それらの不利を押しのけたとしても、圧倒的な論理が証明されたのなら、話しは別です。

 

人がどうこうや国や文化や状況という小さなことではなく、本当の神がいて、それが証明できるというものに出会ったとしたら、他のことは小さなことでしかないのです。

 

とくにローマは、宗教の自由があったのですから、ローマ市民は、命を懸ける必要もありません。

 

それらの不利があったとしても、他の宗教とは比べられないほど超えてしまっているのが、聖書なのです。

 

現代は、様々な文芸や芸術を楽しめます。

映画や小説、演劇もあれば、漫画やアニメなども多くありますが、ひとりふたりの作者が、アイディアを統一させて複雑怪奇に作られていたりします。

 

ですが、それらの作品のために、作者が死ぬなんてことがあるでしょうか。

 

イエスキリストは実在したことは間違いありません。

実際に聖書の預言の成就のために十字架刑にかかられました。

 

それが文化にも裏付けされ、迫害するということは、迫害されている対象が実在することですから、実際に存在している宗教。

 

聖書は、ひとりの預言者だけで書かれたものではありません。

時代も違えば場所も違う預言者たちによって書かれた書物です。

 

それでいてアダムから繋がって説明できているのです。

 

聖書のことについて色々な文句などをいうのは簡単です。

ですが、すごいのは、それらの歪曲された聖書を批判する指摘にも、固定された聖書で説明ができてしまえることが、レベルが高いことが分かるのです。

何の固定もなく、文句をいうのは、誰にでもできますが、固定されているもので、答えられるのは、本当に難しいことなのです。

 

大乗仏教は、それをカバーするために、大量の書物を書き上げました。

大量に書けば、どれかは説明していると誤魔化せるからです。

 

神道は、仏教のように説明などはしません。

曖昧で、不思議な世界観であれば、誤魔化しも効くからです。

 

ですが、聖書は、一冊の本で固定され、その内容は、明確です。

もちろん、黙示録などの未来が書かれている預言書は、古事記のように意味が分からないようにされていますが、それらが実現した時には、理解できるようになっています。

 

黙示録を読めば分かりますが、痛烈に教会の批判が書かれています。

聖書から離れていくキリスト教という宗教について、黙示録は預言を残しているのですね。

 

何はともあれ、現代は、大量の思想を読んだり観たりできるわけですが、それらの思想が、どこかしら共通点があることに気づきます。

宗教もまた同じで、多神教と一神教は、バラバラのように思えるかもしれませんが、実は共通点が多くみつかるのです。

 

海で遠く離れた大陸の宗教もまた共通点があるのです。

 

世界中の宗教を知っていたローマ市民や学者たちは、聖書とその聖書の預言通りに生きたイエスキリストに驚愕したのです。

世界のすべてを一致させ、もとに戻すことができる救世主であると認めたのですね。

 

釈迦や孔子も西にすべてを回復させる人物が生まれると予言めいたことをいったことが伝えられています。

儒教や上座部仏教は、聖書と何の関係もないかのように思えますが、その教えはとても似ているのです。

 

聖書から神や歴史を消すと儒教になってしまうようにです。

孔子は、自分で編み出したのではなく、先人からの知恵を復古させただけだと言っています。

中国といえば、わたしたち日本人の祖先でもあるので、聖書的な文化が、中国にも存在しているのです。

 

鳥居なども中国にあったり、獅子舞なども存在しています。

 

聖書は、世界を説明してしまっているのですね。

 

そして、その聖書は、ひとりのひとを中心にして、書かれています。

 

それが、救世主であり、イエスキリストなのです。

 

創世記の時代から救世主伝説は、伝えられ、世界中に広まり、共通点がある宗教が多数に分布していった結果、今があるのですね。

 

言葉がなぜ分かれて存在してしまっているのかの謎も聖書は、説明できてしまっています。

なぜ人間は、白・黒・茶の3種類なのか。

 

この聖書の預言をことごとく成就させたイエスキリストは、人が画策して行える能力を明らかに超えています。

それは、神だと言えることでしょう。

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