イエスキリスト

人間は必ず悪があります。

一つとして、罪がない人はいません。

 

イエス様は、人間の体を持って生まれてきてくださいました。聖書に書かれているように、悪魔に何度も誘惑され、お腹がすいたら石をパンにしてみたらどうか、世界をあげるなど、人間の欲望をくすぐる提案をされるのですが、イエス様はどれも手を出しませんでした。

 

とはいえ、それらは大人になった時のことです。

こども時代では、罪をおかさなかったのでしょうか。

今回は、イエス様には罪が無かった理由を探っていきたいと思います。

1、マリアとヨセフのこどもとして、生まれてきた

人間に悪がある理由の1つとして、環境があげられます。

生まれてきたこどもは、まだ環境を知らないので、無垢な部分が大量にある存在として生まれてきます。

 

赤ちゃんは、歩くことも、話すこともできませんし、悪を理解していないだけに、悪を実行することは難しいです。

多くの赤ちゃんは、悪が極限に少ないまま生まれるので、悪を赤ちゃんからみるのは、難しいです。

沢山泣くから、悪だと思う人がいるかもしれませんが、泣くことは悪ではありません。それは大人からみれば、悪かもしれませんが、赤ちゃんからすれば、当然の権利であり、不快に感じた生理現象を表現したりするためのものでもあり、声帯を鍛えるものでもあるからです。

 

ですが、人によっては、悪の部分が多いまま生まれてくる子もいます。

例えば、人間最初の息子、カインは、悪から生まれてきた子だと聖書に書かれています。悪の要素が多かったのです。

それはなぜでしょうか。

もしかすると、カインは、エデンの園の時代からすでに赤ちゃんとしての生を受けていたかもしれません。

ですが、エバには、ものすごいストレスがかかりました。

アダムと共に、悪のない天国を生きてきたエバにとって、エデンの園から追放され、イエス様から遠ざけられることへの不安は、ものすごいものだったと想像ができます。もし、その時に、カインを身ごもっていたのなら、エバの人生では、最大級のストレスの時期だったことでしょう。

わたしたち現代人からすれば、エデンの園の追放など、何のストレスでもないかのように思えますが、罪1つもない人生を歩んできた者にとって、罪がある世界に入り込むことは、ものすごいストレスなのですね。

 

悪を味わったことがない人間が、最初に悪を味わうのは、強烈なインパクトを受けるのです。

 

カインは、お腹の中で、エバのそのようなストレスから生まれてきたので、弟アベルを殺すほどの悪魔の誘惑にさえ耳を傾けたのかもしれないのです。

弟アベルは、当然、エデン追放から10か月以上は、経っているので、罪のある世界の環境にも、エバは慣れていたことでしょう。

罪ある環境にもなれてきていたエバから生まれてきたアベルは、カイン以上に善の部分が多くあっても不思議ではありません。

 

このように、親から受ける環境によって、子は、かなりの影響を受けていると考えられます。それは、お腹の中にいる時でさえもです。

流産する確率が一番高い時期は、7週刊だといわれています。

細胞分裂がはじまり、その基礎にあたる時期は、とても繊細だということです。

その時期に受ける母親のストレスが、子に影響をもたらすことは考えられます。

 

では、イエス様は、どうだったのでしょうか。

マリアとヨセフという家族として、生まれてきたイエス様ですが、すでに世界には、多くの悪や多くの罪がありました。

もちろん、マリアやヨセフだとしても、悪に影響されたことは例外ではなかったでしょう。

しかし、この二人は、とても、純粋な人間性を持っていたと考えられます。

 

なぜかというと、マリアとヨセフに、イエス様が生まれる前に、天使ガブリエルが姿をみせるのですが、彼らはガブリエルの話すことばを疑うことなく、受け入れたからです。

 

イスラエル人やアラブ人の始祖であるアブラハムとその妻サラは、同じように、天使が現れ、不思議なことを告げられました。その時、ふたりは疑ったのです。

サラは、心の中で笑いもしたのです。天使は、そのことを叱るのですが、息子イサクは、ちゃんと生まれてきたのです。

 

アブラハムやサラでさえも、天使の言葉に疑いを持ったのですが、マリアとヨセフは、それを受け入れました。アブラハムたち同様、ありえないことを言われたのですが、それも受け入れたのです。なぜなら、ヨセフとはまだ結婚もしていなかったからです。結婚をしていない男女は、性的関係を持つことはゆるされていませんでした。ふたりに、そのような関係がないにも、関わらず、子が生まれてくるという不思議な話をされても、疑わなかったのです。

 

マリアは、その身を知っているだけに、疑わなくても、ヨセフは、疑うことはできたはずですが、彼は、マリアを信じたのです。

ですから、その後、結婚をしました。結婚をせずに、身ごもったことを他人に知られては、勘違いされてしまうからです。

 

この純粋なふたりの家族から生まれてきたイエス様の環境は、かなり恵まれたものだったと言えるでしょう。

カトリックなどは、聖母マリアとして、女神崇拝をするほどに、マリアはとてもできた女性だったことが予想されます。

 

とはいえ、マリアとヨセフの時代の世界は、すでに罪があり、悪もありました。ですが、彼らにとってはそれは当たり前の日常でした。悪に対するストレス耐性は、エバよりも出来ていたことでしょう。

また、マリアとヨセフには、教育費に対する不安もありませんでした。なぜなら、東からやってきた博士3人から高い贈り物をされていたからです。

 

イエス様を金銭の苦痛として、味わうことも少なかったと考えられます。

イエス様は、幼い頃は、かなり優遇された環境だったと言えるのですね。

 

マリアとヨセフは、それぞれダビデの系列の子孫でした。王族の血筋でありながら、とても貧しいふたりから生まれて来たことは、幸いです。

お金があればいいというものではありません。そこには、すでにしがらみなどが存在し、王族だからこそ、悪の環境にひたらなければいけない苦痛があるのです。

ですが、ふたりは、そのような環境からはほど遠くありながらも、教育費は、すでに用意されているという、とても恵まれた環境で、イエス様は、育つことができたのです。

 

そして、なんといっても、イエス様に最善の環境を与えようとした、理由は、天使ガブリエルと性的関係もなかったのに、生まれてきたという不思議な体験の事実を二人が味わっていたからです。

このふたつが無かったとしたら、マリアとヨセフは、イエス様が、特別な存在だと気づくことなく、至って普通に育てたことでしょう。

ですが、イエス様が特別なことは、すでに分かった上での子育てだったのです。

 

みなさんならどうでしょうか。天使が現れ、性的関係もなかったのに、生まれてきた息子を目の前にしたら、罪や悪をさける選択をするのではないでしょうか。

 

しかも、天使から救い主だと、羊飼いたちにの情報から言われた存在です。

その子には、特別良い環境と聖書の教えを与えたことでしょう。

 

神様は、悪が存在した世界であっても、イエス様の幼少期をかなりの確率で、整えられていたことが解かるのですね。

 

そんなこと「ずるい」「不公平だ」と思うでしょうか?

では、みなさんは、イエス様の人生を味わいたいでしょうか。罪をしない人生でありながら、弟子たちからも裏切られ、多くの人々から罵声をうけ、つばをはきかけられ、悪人として、そのまま処刑された人生が、不公平でしょうか。ずるいと感じて、その人生を味わいたいでしょうか。

わたしなら、簡便です。

 

人間最大の苦しみを味あわせる十字架刑になど架かりたくもありません。自分にそれだけの罪があったのなら、まだ納得もできますが、それだけの罪がなかったことは、ローマ提督ピラトも、宣言しているのです。

 

イエス様の幼少期は、神様があらゆる手をつかい、環境を整え、そして、素晴らしいふたりマリアとヨセフを選ばれ、助けられました。

だからこそ、幼い頃から罪から遠ざかって育てられ、その影響を受けることはゆるされずにいたことが予想されるのですね。

8歳ほどになった頃には、聖書の知識人でも驚かれるほどの聖書の知識を身に着け、正しさを認識されていたイエス様です。

 

罪ひとつなく育ったことも予想されるのですね。

 

みなさんは、この世界は、悪で満ちていると考えるでしょうか。もし、そう考えているのなら、それは感情論でしかありません。

事実は、ほとんど善で、神様は、わたしたちを守られているのです。悪の影響は、ごく一部でしかありません。

それは、人間の姿をみれば、解かります。

 

もし、この世界が悪で満ちているのなら、ほとんどの人の顔は、バランスが悪く、オバケのような顔になっていることでしょう。ですが、実際は、みなさんの顔や体は、美しすぎるのです。

神様は、ものすごい天国のような世界という環境をわたしたちにすでに、与えられているのですね。

全知全能の神が確実にいる証拠>>

イエス様は、「なぜわたしをお見捨てになったのか」と言われたのか>>

 

イエス様の幼少期は、それにも増して、整えられていただけだということです。

大人になれば、選択の自由さえもなく、十字架刑の環境にひきわたされました。正しいことをしたとしても、悲劇で終わる悲しさ、苦しさ、理不尽さが、そこには垣間見えます。

ですが、だからこそ、イエス様は受け入れられたのです。

ダビデのように強く祝福された救い主だったとしたら、これほどの多くの人々の心を打つことはなかったでしょう。人は、他人の幸せを妬むからです。

だれよりも、苦しみ、悲しみを持ち、罪さえもなく生きてきたにも関わらず、悲劇として死なれたことが、心の底からイエス様を救世主だということに、納得できる由縁があるのですね。

2、神様であったイエス様は、罪をする必要がない

みなさんは、持っているものをほしがったりするでしょうか。

持っていないからこそ、ひとは無いものをほしがるのです。

無いからこそ、ほしがり、そこに悪魔がつけいり、悪を選ぶという選択にかられてしまうのです。

 

不倫なども、すでに手に入れている妻ではなく、他人の女性、スリルなどによって脳内麻薬が分泌するからこそ、悪であっても、脳に分泌する気持ちよさに負けて、浮気をするのですね。

お酒やギャンブル、犯罪、麻薬、スリルなど、多くの罪には、いくつかの共通点があるのです。

 

持っていないからこそ、脳内麻薬が分泌されるのです。

 

不完全だからこそ、完全を目指し、そこを悪魔に突かれるのです。

 

ですが、イエス様は、神様です。

すでにすべてを持っている存在なのに、罪を求める必要などありませんし、人間的なしがらみもありません。

イエス様にとって最大のしがらみは、家族関係だったかもしれません。

ですから、何度もイエス様は、マリアとの関係には、距離を置かれていたのです。

 

マリアは、ただの人間であり、母親という目線ではイエス様はみておられませんでした。

人間であったマリアからは、イエス様はこどもであり、息子のように思えますが、ヨセフとの間に生まれたわけでもない、聖霊様によって身ごもったイエス様は、マリアのお腹から生まれてきたのですが、血縁的には、違う存在なのです。

 

代理出産というものが、現代では存在しています。自分とは遺伝子がまったく違うにもかかわらず、お腹の中で子を育てることが可能なことが、証明され、実行されているのです。

 

人間からみれば、マリアは、イエス様の母のように思えますが、イエス様であり、神様からは違うのです。

 

もしろ、イエス様は、マリアの父であり、アダムさえも、イエス様の息子なのです。

アダムは、イエス様に似せて、土から造られました。

イエス様は、アダムの子孫ではなく、その上の存在だからこそ、すべての人間の罪を背負うことができる権利を有しているのです。

 

罪のなかったアダムの雛形として、イエス様は存在されたのであって、罪をおかした後の存在として、生まれたのではないのです。

 

 

神様が、善しかできない理由もまた、神様は、この世界そのものであり、事実こそが、善であり、愛なのです。

自然の法則も、すべて摂理にかなって存在し、それに反するものが、悪なのであって、神様は悪をすることができないのですし、する理由がないのです。

完全であるからです。

 

天使や人間、動物や植物、神様以外のすべての存在は、不完全だからこそ、完全を目指しますが、完全であれば、目指すこともないのです。

 

神様は、神様と同じ存在の完璧なものは創ることはしません。それは自殺行為だからです。

唯一の神だからこそ、世界は、保たれているのです。

完全が2つもあれば、世界のバランスは、崩れるからです。

 

イエス様は、確かに、人間と同じように、肉を持って存在されました。

ですが、見た目こそ人間ですが、その中身は、別物です。

 

みなさんは、オンラインゲームなどをしたことがあるでしょうか。テレビゲームでもいいですが、それらのテレビゲームのできごとを、真剣に悲しんだり、苦しんだり、喜んだりできるでしょうか。

それは、ゲームであり、バーチャルなものだという認識があるだけに、リアルに感じることは、難しいのです。

この世界の見方は、神様と人間とでは、大きく違っているので、みているものが違うのです。

 

小説や映画、ドラマなどを自分の体験だとして、見れる人はいません。

イエス様にとっては、人間的な心もちで、世界をみることは、逆に難しいと言えるでしょう。

 

人間と虫である蟻は、ものすごい距離や違いを生み出しています。

人間がなにげなく、砂場の砂で、団子を作ったとしても、蟻からみれば、突然目の前に、月が生まれたようにみえるのです。

自分の存在を超えた、瞬間に月さえもつくる偉大な存在、人間なわけです。

 

では、人間と蟻との距離と、神様と人間との距離は、どちらが、離れているでしょうか。

 

神様と人間との距離は、とほうもなく離れているのですね。

 

悪魔の誘惑をされたとして、それらを味わうことが出来ても、それらを人間と同じ見方では、捕らえられないのが、神様であるイエス様なのです。

人間の目からみれば、マリアは母親ですが、イエス様からみれば、子なのです。

 

1つの同じ「物」をみたとしても、すべての人間が、同じ感覚で、見ているわけではありません。では、神様であったイエス様は、当然まったく違ってその「物」をみるのですね。

動物や虫、植物や鉱物には、お金を持つ理由がないのです。

 

罪ひとつなく、人生を歩まれたイエス様は、この世界が創られてからすでに、勝利され、悪魔も人間のために用意された物でしかありません。悪魔の策略は、ことごとく裏目に出て、結局、人間を救うイエス様を十字架刑にかけてしまったのです。

悪魔は、この世界を否定するものです。無いものを有るとして、有るものを無いとして、歪曲させては、破壊へとつなげます。その裏表を逆転させる発想を世の生み出し、人間に植え付けてきたことで、みえているものは、悪にみえるかもしれませんが、悪をしたからといって、未来では、悪になるとは言えない世界にしてしまったのです。

 

悪魔は、能力を制限され、地に落とされました。それを神様は良しとされたのです。

神様以外のものは、不完全であるしかありません。

その不完全である存在に、また自由意志を与えながらも、人間への救いを成就されたのです。

悪魔のしてきたこと、悪魔宗教がしてきたことは、邪悪そのものですが、それをすることができる許可を神様が下されていることは、未来では、無意味ではないのです。

 

未来をみることができない、人間や悪魔からは、小さな範囲からの見方しかできませんが、神様は時間を超越し、すべての時の出来事に関渉できるのです。

善を悪にし、悪を善にしては、人間を惑わし続けてきましたが、私利私欲によってしばられてきた悪なる者たちの結果はどうでしょうか。

見た目こそ、うらやめるかもしれませんが、その中身は、ただの偶像であり、錯覚なのです。

 

人は愛する人と共に、時を過ごす以上の喜びはないと聖書に書かれているように、幸せはそんなに大げさなものではないのです。

みせかけに惑わされれば惑わされるほど、苦しみもだえ、自分の首を自分で苦しめることになるのです。

自分で作り出した殺し屋に、自分が狙われるようなものです。

 

すべてをみることができたイエス様に、人間的な見方は、政治をやりながら、トランプゲームの手札だけに目をとらわれるような意味のないものにしかすぎないのです。

なかなか、どうでもいいことに、力を注げる人などいないのです。

ましてや神様からすれば、人間的な善悪や選択やしがらみは、かけらの粒として捉えられなかったとしても、不思議ではありません。

釈迦にしても、吉田松陰にしても、普通の人は、不思議に思えるかもしれませんが、見ている視点が違うのですね。

 

それの究極がイエス様というわけです。

 

 

 

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