世界の法則

人間はどうして死ぬのかについては、今のところ、まったくといって解明されていない分野です。霊があるのか、ないのか、天国があるのか、ないのかと言ったように、雲を掴むような題材です。

考古学は、近年になって活発になりはじめましたが、それは以前は、人は過去を知ろうとすることに力をいれることは、ほとんどありませんでした。中国の史記にしても、あらゆる世界の歴史家といわれる人たちにしても、歴史を紐解く1つの素材を産みはしましたが、調べるというよりは、ご都合主義で作り上げたといったほうが正確かもしれません。

唯一歴史書として、重宝されるのは、聖書だけだとさえ言えるかもしれません。

 

そして、考古学は、進化論という宗教が広まった150年ほど前から活発になりはじめ、進化論的な信者の思想を持ったひとたちが次々とランダムに発見していくことになるのですが、発掘されていったものが、聖書と結びつくようになると、聖書に書かれた記事から発見をするという聖書的考古学が多くの発見を見出したのです。

 

聖書こそ、宝の地図であったと考える人もいるのです。

 

現代医療が優れていると考えたり、現代の科学が優れているかのように思わされていますが、正直いって、今のところほとんど世の中のことは、解明されているのではなく、空想で分かった気になっているだけだということが、解っています。

例えば、現代医療が麻酔をよく使いますが、その麻酔は、なぜ体がマヒするのか、まったく理由が解っていないのです。ただ、その量を使用すれば、そのような効果が出るという統計学的に判断されているだけで、それは、解かって使用されているというのか、それとも信じて使用されているというのかの違いなのです。

 

実際は、信じて麻酔を使っているだけで、まったく麻酔のことについては解明されていないで、今も毎日のように利用されているのです。

 

手術をすれば治るといったことも、信じているだけで、実際には、死を早めているだけで、治したようにみせかけていることが大半なのです。

もちろん、怪我をして、大量に血が出たのなら、それを止血して、死を免れるように、救急のようなものには、現代医療は効果を発揮します。脳溢血や脳卒中などの緊急的なものです。ですが、それ以外のガンなどによるものの見解は、ただ信じているだけで、事実とは大きく歪んでいるのです。

現代医療と悪魔宗教>>

 

進化論や現代医療などの宗教をそのまま真に受けて信じてはいけません。

 

では、聖書は信じるに値するのかと言われれば、生や死については、どちらも、明確には解らないといったところだということです。

解らないことは、解らないというものが、本物の科学であり、学問です。解らないのに、解かると断言するほうが、おかしいのです。

 

今回は、解らないなりにも、解らない題材に対して、聖書の教えから死の原因を見ていこうと思います。そして、将来、本物の科学や学問によって、聖書が言っていたことが、正しかったことをさらに証明していければ、それに越したことはありません。聖書は、いつの時代も未来をみているかのように、的確なことが書かれ続けてきました。今回もそうなることを信じたいものです。

1、生き物の個体は、死なない

わたしたち生き物は、生きているように一見みえますが、毎秒のように、わたしたちの体は死んでいます。

コリント人への手紙15章31節

兄弟たちよ。わたしたちの主キリスト・イエスにあって、わたしがあなたがたにつき持っている誇にかけて言うが、わたしは日々死んでいるのである。

生きているように見えるのですが、わたしたちの体は小さい細胞の集合体であって、細胞は常に死んでは、生まれ変わるということを繰り返して、生きている部分が多い状態を保っているだけなのです。

生きているのですが、死に続けているというわけです。

 

その細胞は、染色体の増殖によって新たに生まれ変わり、保たれ続けているのです。

ですが、細胞分裂は、永遠には、なぜか続かないのです。細胞が分裂するたびに、染色体は少しずつ、傷ついていき、ある時を境に、生まれ変わるということをしなくなり、多くの死ぬ細胞だらけになって、見た目にも、老化というものに変わっていくと考える説があります。

まだ、これはあくまで説であって、証明されたわけではありません。

しかし、わたしたちは、人間の子は、その子の親に似るということを知っているように、細胞には記憶があり、自分の存在のコピーのような子孫を残していくことは、普通の人でも理解できることです。

日本人の子は、日本人が生まれるように、細胞は新たな自分を生み出す能力が備わっていると考えられるのです。

 

とは言え、人は老化していき、死に至ります。

 

ですが、これは本来の人間の姿ではないかもしれません。なぜなら、植物、木などは、何千年も生きているものが存在しているからです。その生きている細胞の情報は、水と空気を獲ることで、何千年も新しい細胞を繰り返し大きくなり続けているように、本来、人間も生き物も、そのような存在だったかもしれないのです。

太陽のエネルギーを獲て食物が育ち、その草や果物を食して、生き物たちが、人間、動物、昆虫、魚類などが、栄養を獲て、染色体を傷つけることなく、新しい細胞を蘇らせ続けるのです。

 

わたしたちは、普段から目にしていて、それが不思議だと思わないことが、この世には五万と存在しているのですが、その不思議の1つは、なぜこどもたちは、形を変えて、より大きくなっていくのか?という問題です。

 

大人は、その体を維持して、固定された状態を長く保つだけで、もともとあった細胞が死んでは、また蘇ることを繰り返しているだけですが、こどもたちは、それ以上の状態を常に続けているのです。

 

小さかった赤ちゃんの細胞は、もっとも活発で、次から次へと新しい細胞を生み出しては、細胞は死ぬことが少なく、どんどんと蓄えていくのです。小さかったものが、数年で何十倍もの大きさになり、大人へとなるのです。

これは、とても不思議なのです。

 

何千年も生きている木は、なぜかものすごく大きいです。年輪を重ねて、徐々に大きくなっていくのです。木の最長寿命は4300年ほどだと言われています。日本には、なぜか自称、樹齢6000年というものがありますが、ほとんどは、小さな木であって、長くても数百年程度の木しか存在していません。

本当に4000年も超える木はとても大きく、その年輪は増え続けているのです。

 

これらの木とこどもたちの共通点が見えます。死ぬ細胞が少なく、さらに細胞は増えていき、大きくなっていくというところです。

 

脳や心臓は、細胞は変わらないという人がいますが、果たしてそうなのでしょうか。変わらないのなら、なぜ大人の心臓とこどもの心臓は、大きさが違うのでしょうか。脳も同じです。明らかに大きさが違います。太ったからとかそういう問題ではなく、明らかに大人のほうが、赤ちゃんよりも細胞が増加しているのです。

もし、人間が、いつもまでも、死なない細胞と増殖し続ける細胞を手に入れられたら、死なないに近い存在にも成りえるかもしれません。

 

聖書の神様は、このように初めの人アダムに言われました。

創世記2章16・17節

主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。 17しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

「きっと死ぬ」という言葉は、「必ず死ぬ」という意味です。この箇所で神様が言われたものは、逆に言い換えれば、人は死ななかったとも解釈できてしまいます。

死は、アダムには存在していなかった可能性があるのですね。

 

聖書は、人が死ぬ理由は、罪のためだと書かれています。

善悪の木の実を食べたアダムは、死なない存在だったと思われるのですが、食べた瞬間から死にはじめることになります。アダムの細胞は次々と死にはじめるのです。もちろん、人からみた見た目は、生きているので、全然死んでいるようには見えないのですが、死に続けてもいるのです。

そのはじまりが、罪だというのです。

 

ローマ人への手紙5章12-14節

このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。 13というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。 14しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。このアダムは、きたるべき者の型である。 

現代人は、アダムが罪をおかしたことで、アダムの細胞は死ぬようになるように、アダムから生まれた子孫たちは、その性質を受け継いでしまったのです。ですから、現代人は死んでしまうわけです。

動物たちもまた、同じです。世界を支配するために存在した人間に、罪が入り込み、汚染されていくように、人間によって、万物が汚染されていく、呪われてしまうのです。

創世記3章17-19節

更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。 18地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。 19あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。 

永遠、もしくはそれに近い命の性質を神様から耐えられたのに、人はそれを罪のために捨てて、死ぬものへとかわり、ちりから生まれたものは、ちりへと変えるように変わってしまったのです。悪を知ることで、自由意志があらわれ、神様のように考えるという能力を手に入れたのですが、その反面、死ぬものへと変わってしまい、わたしたちは、その子孫だということです。

聖書のいう罪、悪というものは、人間の善悪のことではありません。世界そのものの神様である「現実」というものを否定するもの、それが悪なのです。

悪魔というものも、神を否定するものだから悪なのです。ですから、次から次へと世界を破壊する行為を続けるわけです。

 

嘘というものも、破壊なのですね。

 

それらの破壊は、外だけではなく、罪をする人間にも及んで、染色体を傷つけて、その子孫は、傷ついた染色体によって奇形が生まれると聖書では考えられました。ですから、イエス様であっても、奇形の人には近づこうとはしませんでした。奇形の人間から信仰によって近づき、イエス様は彼をいやされ、正常な遺伝子に組み替えて、新しくされたことで、彼はいやされたのですが、傷ついた遺伝子を肯定しているわけではありません。

 

欲がはらむと罪になり、罪がかさむと死につながるのです。

 

死は、罪から生まれたものだと聖書は教えているのですね。ですから、罪に勝利することは、死に勝利することになっていくのです。

 

この奇形として生まれた例の1つに、老化現象を加速させる病気があります。

ハッチンソン・ギルフォード・プロジェリア症候群という病気です。こどもの頃から老化が続き、長生きができない状態で生まれてしまうのです。そして、この病気の子は、小さい子が多いのです。細胞が小さい頃から死んでいってしまうので、増加していかず、いつまでもこどものような大きさでしかなりません。

神様からもらった正常な設計図、遺伝子が傷ついてしまうと、このような状態になってしまうように、それらは初めの人アダムからはじまり、すべての人は、遺伝子が傷ついて生きているというわけです。

わたしも注意深く、よく見ると指が少し曲がっています。このように、100%正常な遺伝子を持つ人など存在しません。それらは罪のゆえに起こっている現象だと聖書は教えているのです。

 

2、人はなぜ120歳が限界なのか

120歳を超えて、長生きしたような話を聞いたことがあるかもしれませんが、さっきの大樹と同じで、それは自称にしかすぎず、きちんと調べてみると、結局120歳以下なのです。

170歳生きたという人物も実際は80歳程度であって、先進国ではないところでは、そのような自称120歳以上のひとたちが出てきてしまうというわけです。日本でも120歳を超えるといわれる人たちがいますが、それも定かではありません。結局、生年月日がずれているのです。

 

このように、なぜか現代人は120歳が最長になっているのです。

このことも、聖書には書かれています。

創世記6章1-4節

人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、 2神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。 3そこで主は言われた、「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう」。 4そのころ、またその後にも、地にネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった。

この箇所を人の齢を120年としたのではなく、ノアが方舟を作り上げた120年間のことを指しているという人もいますが、わたしはそうは思いません。

 

それまで、人の寿命は1000歳に近く、とても長寿のひとたちが多くいました。アダムも930歳まで生きながらえたと聖書には書かれています。

このことをノンクリスチャン、未信者に話すと、神話だと思われがちですが、決してそうではありません。

 

なぜなら、その時代の地球環境と、現代の地球環境は、まったく違うからです。

 

その時代の地球のまわりには、水、または氷が存在し、地球規模のビニールハウス状態であって、酸素量が、現在の3・4倍も濃かったのです。

なぜ、創世記の時代の人は長寿なのか>>

アダムが罪をおかしたことで、人は死ぬ存在にはなったものの、神様の恵で、もの凄く恵まれた環境を与えられていたのです。

 

そんなわけがないだろう?と思う人もいますが、実際、現実的に考えれば、当時の世界と、現代の世界が、まったく違う環境だったことは、証明されているのです。

 

それは恐竜です。恐竜が巨大だということを否定する人はいないでしょう。そして、その恐竜が巨大になるまで、育つには、食料が必要です。あれほどの巨大なものが、大量にいた時代は、その恐竜を成長させるための食料もまた、大量に存在していたという証拠です。

今の時代は、小さい存在ばかりが生息していますが、大洪水前までは、巨大な人間や巨大な生き物の世界であふれていたのです。また、植物なども巨大で、恐竜の95%は、草食ですから、大量の巨大な植物が生えていたのです。

まったく今の地球とは環境が違うのです。

 

ですから、死こそあったのですが、1000歳まで長生きした人間が、ノアの時代までは普通だったのです。

 

そして、現代のように120歳の寿命になったのは、アブラハムの曾孫の頃からです。

アブラハムの孫のヤコブ(のちの名前がイスラエル)には、12人の息子たちがいました。その中にヨセフがいるのですが、このヨセフは、140歳程度の寿命になっているのです。モーセの時代には、もう120歳になっているのですね。

 

このように、完全に環境を一気に変えてしまうと、すべての生き物が死滅してしまうので、徐々に120歳という環境に設定されたことが、聖書には書かれているのですね。

 

ですが、これは逆に言えば、当時の人間と同じ環境にしてしまえば、人の寿命は、長くなるとも言えるかもしれないのですね。

3、命とは血

聖書には、命とは血であることが書かれています。

現代人でも、それを理解している人は、理解しています。

 

なぜなら、血液がまわらなくなった体の細胞が、次々と死滅していくことを知っているからです。

 

血液の循環を止めてしまえば、止められたところの細胞は、いっきに死滅していきます。腐敗してくのです。

 

凍傷にしろ、事故による怪我にしろ、血液が、滞ってしまった細胞は、死滅して、腐敗していってしまうのです。

 

血液が固まってしまい、そこに血液がまわらなくなると、足や手などの部分だけが死んでいってしまう人もいます。血液をうまく循環できるようにすれば、また蘇りはじめます。

 

聖書は、罪の代償は、血であると教えています。血という命を流すことで、罪を聖餐できると教えるのです。

悪魔宗教は、それを人間の血で行わせますが、そうではない宗教では、動物などの血で賄ってきました。日本にも長らくその文化は、残されていました。

 

なぜ世界中の宗教にこのように、罪の贖いを血によって行われるというパターンが存在しているのでしょうか。

 

言葉も民族も違うのに、なぜか共通したパターンを世界中の文化の中に存在しているのです。

 

やはりそれは、血こそが、命だという認識を持っていたからでしょう。イエス様が十字架刑に架けられましたが、その十字架刑は、外傷を表す苦しみではありませんでした。じわじわと血液を流していき、十何時間もかけて、苦しめるという恐ろしく残酷な処刑だったのです。人間の考えられる一番残酷で、苦しい処刑方法が、十字架刑だと言われています。

血液を流させることで、死に至り、またその血を生み出させては、死を先延ばしにするのです。

どのように血をまた増やすのかというと、十字架刑にかけられている人に、無理やり水を飲ませるのです。口に水を流すことで、その水が血となり、また苦しみが長くなるのです。

 

血が、命であるのなら、その血は、水によって作られるということです。

現代医療は、他人の血液を利用しますが、実はこれは非常に危険なことなのです。

 

なぜなら、血液1つにしても、遺伝子が違い、同じ血液型であっても、まったく違う血だからです。もし、他人の血液をいれてしまうと、拒絶反応を表してしまい、大量の細胞が傷ついて、がん細胞を増やしてしまうのです。

 

ですから輸血などよりも、点滴のような水ぐらいのものを飲むほうが安全で、血液を補充できるのですね。

 

スポーツをするにしても、水を補給したり、血液の循環を加速させるために、水分を補給することは、良いことなのです。もちろん、何でも過ぎることは良くないので、飲みすぎはいけません。水も大量に飲みすぎると死に至ります。

 

適度な水の補給と酸素が、細胞を長生きさせるヒントだということですね。

 

聖書は蘇りを水によって表す教えを昔からしています。神道もそうですが、水で清めるという行為をして、正常な状態を保たせるのです。血液が、体の細胞に栄養と酸素を送り出して、それが上手に循環しているほど、命を保つことができるのですね。

遺伝子を傷つけないために、罪をしない生活をして、自然な生き方を心がけ、食べすぎず、飲みすぎず、軽い運動をして、状態を保ち続けることが、長寿には大切なことだということです。

 

4、永遠のいのち

聖書が教えている1つは、永遠のいのちです。

この永遠のいのちを獲るためには、土から生まれ、肉を持った第一の状態では、得られないと考えられます。肉がある状態の命は、外の外敵、環境によって左右もされてしまうからです。

聖書には、3つの天国が書かれています。

天国とはどういうところなのか>>

1つ目は、エデンの園。

そして、もう1つは、御国であり、肉がありながら、長寿の天国、エデンの復活したような世界です。

そして、最後に、その肉体さえも無くなった霊的な体です。

 

まだ、2つ目の天国にも至ってはいませんから、3つ目はまだまだ先だと思われます。

 

2つ目の天国は、死んだとしても、土と霊さえあれば、アダムのように蘇ることができるかもしれません。しかし、そこにもまだ死はあります。

 

3つ目の天国は、イエス様と同じように天からの体をもらい、罪とは切り離されています。

イエス様は、十字架刑によって死なれましたが、三日目に蘇りました。それは預言されていた通りでしたが、その蘇られたイエス様の体は、わたしたちの体とは違う霊の体だったといいます。

 

神様は、アダムに永遠に生きるものにならないために、いのちの木を封印されました。そのいのちの木というものは、イエス様のことだったのです。

イエス様がその血を流されることで、すべての罪から勝利し、また、それが、人々へと福音として延べ伝えられ、あらゆる悪が、淘汰されていきました。

 

そのために、現代では、人権を憲法という形で、現実化することに成功したのです。

 

まだ、表向きですが、それでも人権という固定された概念によって、人々は善悪を判断できるようになったのです。

 

そして、徐々に悪は、追い込まれていきます。

 

罪というものが、追い込まれ、無くなるとともに、呪われていた万物も、正常へと変わり、エデンの復活、第二の天国へと変わっていくでしょう。

 

そして、悪に勝利し、罪にも勝利したら、最後の敵は、死です。

 

死が最後の敵になるのですね。

 

そして、その死を打ち破るのは、イエス様であり、十字架刑から現実となって、形をかえながら、死の勝利へとつながっているのです。

イザヤ書25章8・9節

主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。これは主の語られたことである。 9その日、人は言う、「見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる。これは主である。わたしたちは彼を待ち望んだ。

 

死についての奥義が聖書には書かれています。その内容が、すべて解き明かされるのは、まだ先のことになるとは思いますが、それらのことは、実現していくでしょう。

コリント人への手紙15章12-58節

さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。 13もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。 14もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。 15すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。 16もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。 17もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。 18そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。 19もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。 20しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。 21それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。 22アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。 23ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、 24それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。 25なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。 26最後の敵として滅ぼされるのが、死である。 27「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。 28そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。 29そうでないとすれば、死者のためにバプテスマを受ける人々は、なぜそれをするのだろうか。もし死者が全くよみがえらないとすれば、なぜ人々が死者のためにバプテスマを受けるのか。 30また、なんのために、わたしたちはいつも危険を冒しているのか。 31兄弟たちよ。わたしたちの主キリスト・イエスにあって、わたしがあなたがたにつき持っている誇にかけて言うが、わたしは日々死んでいるのである。 32もし、わたしが人間の考えによってエペソで獣と戦ったとすれば、それはなんの役に立つのか。もし死人がよみがえらないのなら、「わたしたちは飲み食いしようではないか。あすもわからぬいのちなのだ」。 33まちがってはいけない。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。 34目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには、神について無知な人々がいる。あなたがたをはずかしめるために、わたしはこう言うのだ。 35しかし、ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」。 36おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。 37また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。 38ところが、神はみこころのままに、これにからだを与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる。 39すべての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉がある。 40天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。 41日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。 42死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、 43卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、 44肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。 45聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。 46最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。 47第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。 48この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。 49すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。 50兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。 51ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 52というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。 53なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。 54この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。 55「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。 56死のとげは罪である。罪の力は律法である。 57しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。 58だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。

 

 

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