聖書

聖書のヨブ記は、教会のメッセージでもよく使われてるものです。

ですが、このヨブ記を読むと、未信者などは、理解できないと頭をかしげてしまうのです。

 

クリスチャンの中でも、このヨブ記の内容に対して、頭をかしげてしまう人もいるほど、ちょっと頭をひねらないとその本質には辿りつけません。

 

簡単に、ヨブ記の内容を言いますと

ヨブという神様に忠実な人間がいました。ヨブは神様からみても、誠実で正しい人間だったのです。そこに悪魔がやってきて、神様に言います。ヨブは、神様から多くの恵をもらっているから神様に忠実なのです。彼の恵を奪ってしまえば、あなたのを呪う言葉をいいはじめるでしょう。

神様は、ヨブの体やいのちに手を出してはならないが、それらに手を出すことを許可されます。

それからヨブは、次々と不幸が及んでいくことになります。財産も失い、息子娘たちが、死に、友達たちも、ヨブを責めて攻撃してきたのです。

それでも、ヨブは、神様に文句をいいませんでした。

悪魔は、健康を害せば、ヨブは神様に文句をいいはじめると言うので、神様は許可されます。

ヨブは、難病におかされ、体中の痛みに苦しみます。それだけではなく、愛する妻さえも、ヨブに文句をいうようになりはじめたのです。

ショックを受けて、ヨブが神様に文句をいいはじめます。すると、神様の言葉がヨブに与えられます。あなたは、塵から生まれ、塵になる者でしかないと言われるのです。ヨブは、正しいことを行ってきた人間でしたが、正しい人間はいないということを理解しました。正しいのは神様だけしかありえないと理解したので、ヨブは、神様に謝り、悔い改めると、またヨブは祝福を受けるようになります。

新たに息子娘を与えられ、以前よりも多くの財産を獲て、祝福されたのです。

 

確かに、この話を聞くと、人間に与えられる試練、悪魔からの攻撃の理解が進みます。ですが、疑問に思ってしまうことがあるのです。

それは、死んだこどもたちは、何だったのか?ということです。

ヨブは信仰を改め、より深く神様に立ち戻り、新たに息子娘を与えられたのですが、死んだこどもたちは、どうなのか?と疑問に残るわけです。

 

今回は、この死んだヨブのこどもたちと、その解釈について考えていきましょう。

1、死んだヨブのこどもたち

ヨブは正しい人間だったので、そのこどもたちも、聖書に沿ったような教育をされ、脳は神様のプログラミングによって育てられていた可能性が高いです。

ヨブのこどもたちは、差はあっても、正しい子たちの確率が高かったでしょう。

ですが、不幸にも、彼らは悪魔の攻撃にあって死んでしまいます。

 

ヨブの妻も、素晴らしい女性だったと思わされます。それはこどもたちが死んでも、ヨブを批判せず、ヨブを支えたからです。

ヨブのせいだとは思えなかったということもあるでしょうし、ヨブよりも自分の罪からきたことだと思っていた可能性もありますが、それでも、ヨブの嫁は、責任をヨブに押し付けようとはしなかったのです。

とは言え、ヨブのこどもたちは、可哀想だと思えてきますね。

 

ヨブや、ヨブの嫁は、その後、それ以上のこどもたちを与えらて、その他のことも祝福されたのですが、死んだこどもたちの立場からすれば、バッドエンドのように思えます。

 

この世界は、正しいことをしていても、死んだり、残酷な出来事が訪れ、犠牲になってしまうことがあります。

それは聖書にも書かれています。

伝道者の書8章10-14節

またわたしは悪人の葬られるのを見た。彼らはいつも聖所に出入りし、それを行ったその町でほめられた。これもまた空である。 11悪しきわざに対する判決がすみやかに行われないために、人の子らの心はもっぱら悪を行うことに傾いている。 12罪びとで百度悪をなして、なお長生きするものがあるけれども、神をかしこみ、み前に恐れをいだく者には幸福があることを、わたしは知っている。 13しかし悪人には幸福がない。またその命は影のようであって長くは続かない。彼は神の前に恐れをいだかないからである。 14地の上に空な事が行われている。すなわち、義人であって、悪人に臨むべき事が、その身に臨む者がある。また、悪人であって、義人に臨むべき事が、その身に臨む者がある。わたしは言った、これもまた空であると。

このように、善人であっても、悪人のような結果で終わる人もいるのが、人間の歴史には存在しています。

このヨブのこどもたちも、その1つの例だったと言えるのではないでしょうか。

 

なぜそのようなことが現実にあるのでしょうか。全知全能の神様がいながら、なぜ善人が死ぬという歴史が存在しているのでしょうか。

 

原始キリスト教徒もまた同じでした。悪いことをせず、反乱を企てているわけでも、ユダヤ教を消そうとするわけでもなかったのですが、当初のキリスト教徒たちは、ユダヤ教とローマ帝国からいのちを狙われました。

事実をそのまま語っているだけで、いのちを狙われ、実際に死んでいるのです。

プロテスタントの時代もそうでした。学問的に事実を語っていただけで、カトリックの不当な裁判で悪とされ、魔女とされては処刑されていったのです。

 

神様がいるのなら、なぜこのような悪いことをしていない人の悲劇の歴史が存在しているのでしょうか。

 

それは、聖書にすでに書いています。

 

人間は、アダムとエバからはじまり、このふたりには、悪が存在していませんでした。脳に悪の存在、情報がなかっただけに、悪を発明することができなかったのです。200年前の人に「スマホ」と言っても通じないように、悪というものを知らないだけに、悪を発見することは困難だったのです。

ですが、その後、その人間に悪のプログラミングを植え込んだ、悪の根源、悪の明星の悪魔が蛇に入り込んで、人間に悪の情報を与えて、人間の脳に植え込んだのです。

 

この瞬間から人間は、善悪を理解してしまったので、悪を行うことができるようになってしまったのですね。

ですが、これは悪いことだけではありませんでした。それは人間は、善だけしかないロボットのような存在から、善悪を自分の意思で選択できるという自由意志を手に入れたからです。

神様は、人間に与えた自由意志を極限まで尊重されることが聖書を読めば解ります。

 

善人が悪人によって殺される未来の結果を知っていたとしても、神様は、人間の自由意志を尊重されました。

なぜなら、神様は善が圧倒的に有利な環境をすでに、人間に与えられ、ほとんど自由意志を無視したような天国のような状況の中、一部の悪を許可されているからです。

 

悪魔が入り込んだ蛇をエデンの園に登場させる許可を下すなんて、ひどいじゃないかと思う人もいるかもしませんが、少し落ち着いて考えて観ましょう。神様が許可されたのは、蛇だけです。その他のすべてのものは、善なるもので満ちていたのです。

 

99.9999%の善の環境を与え、存在するのか、しないのか解らないほどの存在、0.00001%ほどの蛇を許可して、人間の自由意志を尊重されたのです。人間は、多くの光を選び、神様の言いつけ通り、善悪の木の実を食べないという選択も十分可能だったのです。むしろ、そのほうが可能性が高いのですが、人間が選んだのは、食べるということだったのです。

 

その出来事が起こる前に、かならず死ぬから食べてはならないと、しっかりと伝えていたにも関わらず、人間は食べるという選択を選んだのです。

 

悪を必要以上にみるひとは、この世があたかも、悪で満ちているかのように、思い込みやすいですが、実際は、そうではありません。いつの時代も神様は、多くの善の環境を与え続け、人間にゆとりを与えているのですが、人間が悪に流され、それを忘れ、悲劇を作り出しているのです。

 

人間がいれば、戦争はなくなることがないといった、訳の分からないデマの情報がテレビなどでも流されますが、そんなわけはありません。もし、それが本当のことなら、外で散歩していたら、ほとんどの人たちが、殴り合いの争いをしていなければなりません。ですが、わたしのまわりの人間は、ほとんどの人は、争いのない生活を望み、殴り合いを好むような犯罪的な人などほとんどいません。

すべての人間が善だとは言いません。ですが、すべての人が犯罪者であるかのような思想は、嘘なのです。ほとんどの人は、痛いことは嫌いですし、なるべく穏便に平和に生きていたいと考えるのが、普通なのです。

戦争をするのは、いつもご都合主義の支配者たちです。それに無理やり参加させられるひとたちは、いつも被害者で、追い込まれて行わされるのです。

 

いわゆる、脳が悪魔の知識で染まっている一部の人間たちが、世の中を悲劇にし、善人を手にかけているのであって、ほとんどは、善を基準にして、犯罪者思考から遠ざかろうとしているだけなのです。無神論者などは、そのような犯罪思考の人間の予備軍のようなもので、サポートしているだけで、弱肉強食がこの世界の真実だと思い込まされているだけで、事実とはまったく違うのです。

 

この世界は、草食動物のほうが圧倒的に優位の世界で、発掘された恐竜の95%は、草食なのです。

 

5%のほうを何度もみせられると、それが世界の真実のように脳が錯覚してしまいますが、そうではありません。

 

戦争など、数えるほどしか行われていないのです。99.999%は、平和的な生活で満ちているのです。それはアブラハムの時代でも同じでした。

いつの時代も、平和や安心が人々を守り続け、一部の悲劇が存在しているのです。

 

悪がないなどというのも嘘ですが、悪で満ちているというのも事実からみれば、嘘なのです。

 

人間に悪が入り込んだことで、神様は、人間に試練を与える必要が出てきました。

なぜなら、人間が悪をしても、祝福され続けるのなら、悪は歯止めが効かなくなるからです。悪が悪を増大させて、増え広がってしまうのです。

ですから、神様は、悪をしたら悪い結果が起こるように、世界を創られました。

 

悪をしたら、傷つくのですから、悪を制御しようとしなければ、生存できないようにされたのです。

どんなに善人であっても、人間は人間です。神様から常に守られているからこそ、生きているのです。それを忘れないためにも、悪を理解している人間には、試練が必要になって来ます。

試練は神様から与えられた宝物>>

 

ヨブにもたらされた試練は、そのためでした。

また、ヨブのこどもたちも、それに守れていたのです。だからこそ、死ぬことができたのです。

 

神様であっても、存在しない人間を手にかけることなど出来ません。こどもたちが死ぬことができたのは、生きていたからです。生きていない者を殺すことはできないのです。

 

この生きていることを当たり前だと考えてしまうと、理解に苦しむことになります。生きていることは、決して当たり前のことではありません。奇跡の中の奇跡がなければ、ヨブのこどもたちも、わたしたちも存在しえないのです。

これは偶然という言葉で締めくくることはできません。偶然ではまったく説明できないほど、この世界は天国すぎるからです。あまりにも綺麗で安全で、保障されすぎているのです。

 

 

 

 

 

 

2、ヨブのこどもたちは、失ったのではない

ヨブが試練を受ける前のこどもたちは、死にました。それをマイナスだと考え、試練後に与えられたこどもたちは、プラスだと考える節がありますが、そうではありません。

 

死んだこどもたちは、マイナスにはなりえません。

 

マイナスとは、0よりもさらに消されることであって、どれだけ人間が死んでもマイナスになることなどありません。彼らが生きていたことは、嫌がってもプラスなのです。

 

自分の愛する者が死ぬと、悲しみに襲われます。とても苦しく、胸が張り裂けそうになります。

ですが、胸が張り裂けそうになるほど、愛していた家族は、それが苦しいからといって、その死んだ愛する者が、生まれてこなければよかったなどとは、思いません。

はじめから生まれてなければ、よかったという家族の発言を聞いたことがあるでしょうか。涙を流さない人程度の想いなら言うかもしれませんが、涙を流すほど愛していた者が、生まれてこなければよかったということなどないのです。

 

むしろ、死んだ後も、愛する者が生きていたことを知ってもらいたいと望むほどです。

 

存在しないものは、思い出になることもありません。悲しむこともできません。悲しめる、苦しめるということは、その愛する者が存在していた証拠なのです。

 

死んだものは、プラスこそなれ、マイナスになどなれないのです。プラスとして存在していたからです。それは悪人であっても同じです。どんな悪人でもその人が、マイナスを造り出すことなどできません。0に近づけることはできるかもしれませんが、マイナスにすることは、ほとんど不可能です。

 

もともと、この世界はプラスだからです。存在しているというプラスが前提にあって、与えられていることが前提なのです。与えられているところを0だと思い込むと、マイナスのように思えますが、事実からすれば、与えられていることは、すでにプラスなのです。0にすることも難しいのに、マイナスにすることはさらに難しいのです。

 

悪魔は悪をしますが、悪魔であっても、それには逆らえません。どれだけ悪をしても、事実がプラスなのですから、悪をすれば、プラスであることが明らかになり、人々の目は開かれてしまうのです。

 

悪魔を信じた民族は、恐るべき文化と行動をしましたが、それらは、周辺諸国から弾圧され、悪をすれば、叩かれるという現実が証明されました。

ですから、頭の悪い悪人は、悪を表でもしますが、歴史を知っているような賢い悪人は、表では悪をしません。人にみられていないところで、悪をおこわなうのです。

 

隠れなければ実行できないことを悪魔側の人間が理解して、隠れた時点で、すでに悪は負けているのです。

時間とともに、追い込まれていくだけで、一部の悪は、大量の善には圧倒的に勝てないのです。

 

ヨブのこどもたちも、圧倒的な善の世界のこの世に生まれた奇跡の産物でした。彼らは奇跡を通して、生まれ出ることができたのです。体こそ死にましたが、霊も残され、神様によって守られ続けます。

ヨブは、生きている時は、彼らと会えなかったかもしれませんが、死んだ後は、彼らと出会い、さらに後から与えられたこどもたちも含めて、実は2倍のこどもたちを獲ているのです。

死んだこどもたちは、ナイナスで、新たに生まれたこどもたちは、プラスなのではなく、死んだこどもたちもプラスで、新たに与えられたこどもたちも、さらにプラスで、2倍のこどもたちをヨブとヨブの嫁は、与えられたのです。

 

 

 

 

3、死後の世界がないという軽薄な考え

事実を基にして、考えれば、死後の世界がないと考えるほうが、実はおかしなことなのです。

 

なぜなら、この世が、天国すぎる環境で守られすぎているからです。

 

わたしたちが、生きて存在していることは、何度も言っているように、当たり前ではありません。奇跡が無限と言えるほどに積み重なって、はじめてわたしたちが、生存できる環境が生まれるのです。

これを偶然だとするのは、頭が変な人だけです。

 

鏡を持って、あなたの顔をみてください。あなたの両目は、バランスいい位置にあるのは、なぜでしょうか。もし、この世が偶然なら、あなたの目はバランスが悪く、あなたは、この文字も理解できない脳で、姿形も、ぐちゃぐちゃなはずです。

ですが、現実は、ほとんど100%の人間が、綺麗すぎるほど、綺麗に成長し、存在しているのです。

 

パラリンピックが、常識なら、偶然だと言えるでしょう。ですが、実際は、オリンピックが常識であって、それが事実です。

 

ほとんど100%の人間が生まれてきたら、ものすごく綺麗に生まれてくるのは、そこに設計図があり、恐ろしく規則正しく組み立てられているからなのです。

外に散歩にでて、人間や動物、植物をその目でみましょう。みな、規則正しい形で存在し、ぐちゃぐちゃな世界ではなりのです。

 

綺麗に生まれてきているだけではありません。さらに、生きていくのに、水と食料があれば、ほとんどカバー出来てしまうという事実が、とんでもないことなのです。

いいですか。空気があることは、宇宙では当たり前ではないのに、なぜ、地球は何千年も空気があり続けているのでしょうか。

生きるためには、空気もお金で買わなければいけないような世界。重力を買わなければいけない世界。その他、多くの生きていくのに必要なものがあったのなら、この世界は地獄のような世界だと言えるでしょう。

ですが、実際は違います。あまりにも天国すぎる環境が、ものすごい長い間、保たれているのが、現実なのです。

 

この世界は、天国すぎるのです。

 

これは偶然だと考えれば、ありえないことであり、学問では説明できるものではありません。すでに偉大な神様が存在しなければ、わたしたちは、存続できていないという証拠なのです。

 

天国のようなこの世界が、実際に、存在しているのに、なぜ天国が存在しないと言えるのでしょうか。

この世界が存在していなくて、ぐちゃぐちゃであったのなら、それもありえるかもしれませんが、頭が変な人じゃなければ、この世界は存在していると答えることでしょう。

この世界があるのに、天国がないと考えるほうが、どうなのだろうということです。

天国とはどのようなところなのか>>

ヨブは、こどもたちと再会することでしょう。そして、多くの人々に神様の偉大な御業の証人として、その出来事が神様への理解へと勧められた喜びに満ちたりることでしょう。無くなったこどもたちも、自分たちのいのちが無駄ではなかっただけではなく、人間の歴史が続くほど、語りつがれる存在となったのです。

人間の表面的な目からみれば、イエス様は十字架刑に架けられて、負けた人間だと思えるかもしれませんが、実際は、2000年後の今は、20億人もの人々が、そのイエス様を信じているのです。

日本の人口の10倍もの人々が、十字架刑で死んだ存在に感謝しているという、不思議な事実が存在しているのです。

 

ひとは、表面的なものを見がちですが、よくよく考えてみると、天国の存在を考えることは、理にかなっていたり、死後の世界や霊の存在がないと考えるほうが、おかしいことになるのです。

実際にわたしたちが存在しているからです。

我は考える、ゆえに我ありです。

 

お金のため?生きていくため?食料や家族のため?世の中に評価されるため?

それらのことは、二次的、三次的な事柄であって、表面的なものにすぎません。事実を基にすれば、愛や正義を二次的なものを犠牲にしてでも、守り続けることのほうが、自分たちにとっては利益なのです。

よく、クリスチャンは、偽善的だと勘違いしている人がいますが、そうではありません。むしろ、利己的だとさえ言えるのです。事実を把握して、一番論理的な選択をしているにすぎないのです。隣人を愛するのは、自分のためになるからです。目の前の紙切れのお金や鉱物(石)のお金に操られ、欺瞞に満ちた人生を歩むほうが、気持ち悪いから、それらよりも愛や正義を選んでいるだけなのです。

 

素晴らしいわけでもなく、偽善的なわけでもなく、それらが論理的だから選んでいるのですね。

クリスチャンは、偽善者なのか>>

この世界が存在しているという事実から、天国がないと軽薄に考えるほうが、危険だと考え、天国に宝を積もうと愛や正義を利己的に選んでいるだけなのです。

感情論ということでは、イエス様の教えでは、ないのです。

神様がなぜ人間を守られ、世の守れるのか、それは神様ご自身のためでもあるからです。世界は神様の体であり、その意思ある神様の存在を理解できるのは、人間だからです。自由意志で認識できる存在がなければ、神様からしては、意味がないと考えてもおかしくありません。

お互いに作用しあっている関係だと言えるのですね。

ですから、偽善的ではなく、むしろ利己的だとさえ言えるのです。

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